伊藤さんがグリーに入部された当時のことを竹本さんが書いておられましたので、懐かしく再度投稿いたします。大学紛争の頃の話です。
私たち19回生が教養から六甲台に上がった2年生の後期、期末試験が始まるその当日六甲台学舎が全共闘により封鎖されました。大学は就職を控えた4年生のため試験は全てレポートに切り変え、下級生もこれ幸いとレポートを書き、写し、出来る限り単位を稼ぎました。全共闘の諸君も同様に頑張ってレポートを作成、封鎖の恩恵を充分に堪能したと聞いています(大学とか、その他諸々の権威を否定するところから全共闘運動ははじまったはずですが、単位は矢張り切実な問題であったようです)。丁度、定期演奏会を終え、翌年3年生になる私たちがクラブの運営を引継いで少し経った頃でした。
1969年最初の演奏会である関西六大学合同演奏会(関学、同志社、立命館、関大、甲南の錚々たるメンバーです)に向け、竹本さん(現当団指揮者)の下、確か「シューマンの男声合唱曲集」に取組んでおりました。
学内の状況を反映し、部内には種々様々なメンバー、当時の仕分けでいえば、右翼・ノンポリ・民青・全共闘、あるいは一般学生・暴力学生と称される殆どすべてが揃っていました。
普段、練習場の外で顔を合わせば、議論・非難・実力行使(ゲバルトとも言いました)にと、すぐにいがみ合う連中が、部内では仲間として、かつ当然の事のように、同じ曲に取組んでいる。極めて不思議な空間が六甲台講堂に存在していました。
このような場を提供、維持出来る、そのことだけでもこのクラブが存在する意味があるのか、とも思っておりました(こんな甘いことを公表すれば、すぐに「自己批判しろ」とクラブ内のあらゆるセクトから糾弾されかねない雰囲気でしたが)。
いつも通り練習は続けていたものの、騒然とした環境の所為か熱が入らず、曲も遅々として進みません。この状態が続けば関西六大学への出演を辞退せざるを得ないことになりかねません。
部員総会を開き意見を聞いたところ
1. シューマンは、今の私たちが歌うのに相応しい曲なのか
2. ドイツ語で歌って分かってもらえるのか(これは永遠の課題です)
3. 私たちが共感をもって表現できる曲を歌いたい
4. 私たちが考えていることを、当日チラシにして配りたい
5. エール交換に「商神」はふさわしいのか
等々、特に「曲目の変更」はほぼ全員の要請でした。
つまり「私たちを取り巻く状況の中で、今の私たちが共感をもって歌える曲を歌いたい」が大勢を占めました。「いったん決めた曲を安易に変更するのはどうか」との意見もありましたが、いずれにせよ、シューマンでは進まず、曲目を変更しなければどうにもならないのは明白でした。
では「何を歌うのか」「チラシを配るとすれば内容は」「商神」の話。
曲目は以前4年生が歌ったことのある「未婚」に比較的すんなりと決まりました。「未婚」と言う曲が本当にベストであったのかどうかはわかりません。ただメンバーが知る限り、最も心情的に相応しい曲だったのでしょう(60年安保の頃に作られたと聞くこの曲が、70年安保を控えた当時の状況に合ったのでは)。決定したのが多分2月末頃、それからは通常の練習に、合宿にと「未婚」を歌いこみました。全員が納得し選んだ曲だけに、練習への集中力には素晴らしいものがありました。
一方、「チラシ」は案文を募ると、全共闘のアジテーションの類、いわゆる「我々はー、何々の闘争においてー」的なものも含め様々。最後は、確かシャンソンのジャック・プレヴェールの詩を引用した平易かつ格調の高いものに(建築科の部長が挿絵と文案を練りました、自画自賛ではありません、手元にあれば披露したいくらいです)。
六大学実行委員会の事前打合せでは、甲南大学が「演奏で表現すべき。チラシは邪道、絶対に認めない」と強硬に反対し了解が得られず、結局演奏会当日の委員会に持ち越すことに。否決されれば出演辞退も止むなしと緊張しつつ臨みましたが、幸いなことに、関西大学の「チラシの内容、表現に全く問題はない。配る、配らないは各大学が決定すればよいこと」で漸く決着が着きました。
「商神」に代わるべき歌は? メンバーは神戸大学のほぼすべての学部を網羅している。そのエール交換に相応しい歌は? 当時、学歌は制定されておらず、唯一全学的と言える学生歌「この丘に」を歌うこととしました。急遽中村先生に編曲をお願いし、軽快かつ歌いやすい曲にしていただきました。
演奏の結果は極めて好評を博し、合唱ジャーナルにて日下部 吉彦氏から「新曲にもかかわらずよく纏め上げた。」(確かそんな文章であったかと)と頓珍漢な絶賛を得たのも楽しい思い出です。
後日、出会った日下部氏に「みんなも喜んでおります。」と挨拶したところ、「新曲だなんて、知らないで書いて失礼しました。でも、とても良かった。」と改めて誉めていただきました。「想いというか、そういうものが伝わってきました。」とおっしゃったのを今でも覚えています。
前回の定期演奏会にて、久し振りに「未婚」を歌い、忘れていた「あの未婚」を思い出しました。当然ながら、当時感じた熱気、高揚感は無く、経った時間の長さのみが残りました。
1969年の「未婚」は多分、状況と、その中で息づいていた部員の思いが創り出した稀有な演奏だったのでしょう。その一員であったことに今改めて感謝をしています。
曲の選定にあたっては、少なくとも、状況に相応しい曲、共感を持てる曲、選定の意図が明確な曲、の何れかを満たすことが必要ではないでしょうか。そのような曲を歌えたらと思います。MGCさんが演奏された「枯木と太陽の歌」には感動しました。「年輪を重ねた人たちが年輪に相応しい重厚な表現をされていた」のに共感したからです。
その後大学紛争の激化に連れ、部内も紛糾の度を強め、5月の関西六大学合同演奏会を最後としてこの年のグリークラブは演奏活動を休止、クラブも一旦休部としました。秋頃ようやく大学紛争も収まり、クラブ再開へ動き始めました。その頃、私達3年生はクラブ運営に失敗した責任からほぼ全員が退部します。無責任にも1、2年生にクラブ再建の重荷を委ねたわけです。
古いことで、思い込み、間違い、不十分な表現等多々あるかと思います。忌憚なくご指摘いただきますようお願い申し上げます。