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談話室

田邉 弘幸「古代、音楽は数学だった?」

「疑問]
音楽はいつも私たちの手が届くところにあります。当たり前の顔をして其処ここに存在しています。ふと思いました、人間にとって音楽とは何か、或いはどうして音楽が存在しているのか?いつから? 些か気になって、音楽の起源とか、歴史などを調べてみようと思いました。歴史書を紐解けば、古代文明のメソポタミア、エジプト時代から音楽は奏でられています。世界最古の骨笛の化石も出ています(紀元前6世紀)。壁画にも楽器と奏者の絵姿が残っています。
人間を他の生物と決定的に峻別している要素は或いは存在そのものは、その創造性にあります。自己表現をしようとする願望でもあります。それを体現するのが技術(Art)であり、後世では芸術と呼ばれているものです。自己表現のArtとしての絵画であり、彫刻であり、音楽、等々なのでしょう。絵画・彫刻の類は、先史時代からの人間の営みとして、その痕跡・遺跡がいくつも残されています。しかし、音楽は少し状況が異なります。それは音楽行為自体が、瞬間の芸であり、痕跡を残さずに消えてしまう事と関係があります。古代の音楽には楽譜はありませんでした。記録として残されなかったのです。どの様な音楽が奏でられていたのか知る術はありません。
音楽史上では、体系的な音楽の解明と発達はギリシャ時代からと言う定説に従い、少しその痕跡を調べてみたいと思います。

「ギリシャへ」 
西洋文化(歴史的には世界文化と言えるかもしれません)発祥とされる古代ギリシャの時代は、真理追及の哲学と世界を数理的に把握する数学を中心とする学問体系の基礎が構築された時代でした。
ソクラテス、ピタゴラス、プラトン、アリストテレス、と言った学者達による真理の追及(哲学、数学)、ホメロス、サッフォー、アナクレオン、オルフェウス、ピンダロス、3大悲劇詩人(アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデス)などの手になる総合舞台劇。これらの名前を思い出すだけで、如何に大きなインパクトを後世に及ぼしたか分かりますね。
そして、私に取り重要な事はこれらの天才的先達が全て何等かの形で「音楽」に関与していたと言う事実なのです。学問としての音楽(実はギリシャ時代の音楽は数学であり、天文学でもあったのです!)はピタゴラスにまで遡ります、加えて当時の音楽理論は多くの書き物によって確認する事が出来ます。一方、アクロポリスの大劇場で(ディオニュソス劇場の一部が遺跡として残っている)上演されたギリシャ悲劇を始めとする多くの舞台劇は、演者・舞踊・音楽が一体となって演じられていたと記録されています。少数の俳優と15~20名の合唱(コロス)を中心に進行したとあります。オーケストラ、コーラス、シアター、ハーモニー、ドラマ、など今日、音楽・芸術一般に関する多くの言葉はギリシャ由来です。
ではどんな音楽を奏でていたのでしょうか? 残念ながら、それを証明できる記録は残っていません(楽譜もCDもありませんでしたね‼)。
それでは、学問としての音楽(音楽は数学?)に触れる前に、興味を引くお話を少し。

[ギリシャ神話と音楽]
ギリシャ神話に出て来る、「太陽神アポロン」は理性と知性を司ると言われています。その手には竪琴を持っており、理性的な音楽を代表します。一方対立する形での「酒の神ディオニュソス」は手に盃とアウロス(管楽器の一種)を持っており、感情と恍惚の音楽へと誘います。太陽神アポロンは(ゼウスの子供たちである)9人の「文芸・音楽」を司る女神たちを従えています。ムーサ(pl,ミューザ)達です。それぞれ、担当領域を持っています。
カリオペ(叙事詩、筆、最も賢い女神)、クレイオ(歴史、巻物、フェルメールの絵画で有名)、エウテルぺ(抒情詩、笛)、タレイア(喜劇、仮面、アフロディティを囲む三美神の一人)、メルポメネ(悲劇、仮面、女性歌手)、テルプシコラ(合唱、竪琴)、エラト(独唱歌、竪琴、フランスの大手音楽系出版会社)、ボリュムニア(歌舞,賛歌),ウラニア(天文、杖、)。9女神の内、エウテルぺ、メルボメネ、テルプシコラ、エラト、ウラニアはそれぞれ、天体の小惑星の名前が付けられています。そして、この9人の女神が司った万象をムシケー(mousike )と呼びました。ミューズの恩寵にあずかる人間の営み、とでも言いますか。このムシケーが現在のミュージック(Music)の語源だと言われています。厳密に言えばギリシャ時代のムシケーのコンセプトと現在のミュージックとはその内容において相当の乖離があります。古代のムシケーはより広範な学問全体の調和、或いは宇宙全体の調和が保たれている世界を表しており、現代でのより狭義な音楽を完全に包含しているコンセプトであったと言う事が出来ます。ギリシャ神話の世界ではムシケー(広義の音楽)存在は大きかったことが分かりました。神話誕生に至る背景の一部を物語っているとも言えましょうか。
因みに、「クラシック音楽」は世界共通語ですが、クラッシク=古典 ではありません。
ラテン語のclassis(階級)の派生語であるclassicus(第1階級に属する、最高水準の)が語源となっている様です。ギリシャ時代以降最近まで(19世紀初頭くらいまで)、学問を探求し、音楽・演劇などに勤しむ事が出来た人々は限定的だった事の証とも言えるかも知れません。

[学問としての音楽]
此処で愈々、ピタゴラス(紀元前6世紀)の登場です。
ピタゴラスの定理(三平方の定理)の発見者である、この著名な数学者・哲学者は「音楽理論の祖」とも言われています。そして音楽に関する影響はプラトン(紀元前5~4世紀)、アリストテレス(紀元前4世紀)にも引き継がれていました。ピタゴラスが、音の響き方(周波数)と音の高低(音律)の関係には一定の法則がある事を発見した時の有名な寓話が残っています(音響に関するピタゴラスの定理)。
周波数に関わる有名な挿話を一つ。
「 鍛冶屋で聞く槌の音はバラバラに聞こえるが、時に協和して一致する音を聞く事があると感じたピタゴラスは職人の協力を得て音律と周波数に関する実験に乗り出した。即ち、槌の重さが同じであれば音は協和する(周波数は完全に一致する)、又、一方の槌の重さをもう一方の半分の重さにすれば、同様に音が協和し丁度オクターブ(ド→ド)を響かせる。弦で言えば、一方の弦の長さを半分にすれば周波数は反比例で2倍となり、二つの音は完全に協和する。更に夫々の槌の重さを単純な比率で一定の調整を加える事により、美しく協和する比率を割り出した。」
これら協和する振動数の比率は(いずれも“ド”を起点として考える);
1:2 完全8度(ド→ド:オクターブ)、 
2:3 完全五度(ド→ソ: 全音・全音・半音・全音)
3:4 完全4度(ド→ファ;全音・全音・半音)
   (当時音階をド・レ・ミ・・・・と呼んでいた訳ではない)
と言う法則を発見しました。槌の重さも、弦の長さ、笛などの長さの比率も同様。
2/3の比率は完全五度を表示し、3/4の完全4度を加えればオクターブになる、数学的には2/3x3/4=1/2 と言う数式で証明されるとしていました。
そこで、ピタゴラスはオクターブ内の全ての音・音程を周波数3:2(完全五度)の連続から導くべく詳細な計算を行った訳です。基準音(C )の完全五度上の音は(G)となり、この(G)を起点に2:3の周波数が合致するところ(完全五度)は(D)となります。が、これはオクターブを超えているので、1オクターブ下げ(周波数を半分にして)基準音(C)の2度上の(D)としました。次いで、更にこれの完全五度は(A)・・・・と言った同じ様な計算を繰り返し、12回目の計算で基準音の(C)に戻る事が立証された訳です。オクターブ内の全ての音が12音(半音)あると言う事が証明されました。
これがピタゴラス音律ですね。
(但し、完全五度の周波率比で決められた音律は、基準音(C)に戻る最後の音程の距離が(F→Cの間で)少し幅が小さくなる計算結果となりました(1:0,987)、「ピタゴラスのコンマ」と呼ばれているそうです。つまり基準音のCとオクターブ上のCの音は微妙に異なる、調和しない事になります。又、完全5度と完全4度が基本のピタゴラス音律では、3度は調和しない事も知られていました。グレゴリア聖歌の如き単旋律でハーモニーの無い音楽であればこの様な誤差は気にも留められなかったのでしょうが、ルネッサンス以降音楽の構成が複雑化するとともに新しい音律が生れたのでした。純音律が生れ(音の調和は完璧だが、転調出来ない欠点がある)、12音間の周波数比率は全て同じとする現在の平均律音律へと変遷を遂げたと言われています。
因みに、ヴァイオリンの調弦は低い弦からG・D・A・Eと間隔が完全五度、ビオラとチェロは、C・G・D・Aと完全五度の調弦となっています)

ところで、音楽表現の証となる楽譜ですが、残念ながらギリシャ以前の音楽も含めて音楽的記録(楽譜)は残されていません。ギリシャ時代には断片が幾つかあった模様ですが、殆ど読み取れず従って当時の音楽は再生できないのです。
楽譜の登場は9~10世紀のグレゴリア聖歌の手書き楽譜(ネウマ譜)の登場迄待たねばなりません。中世においては宗教色の強い音楽とならざるを得なかったのは必然としても、楽譜を得て初めて詳細に設計された体系として成立させた西洋音楽が、その後1000年以上にわたり世界の主流となった訳です。 音楽は有史以来、世界中で独自の発達を遂げてきましたが、それらの殆どは口伝を中心とする伝承であり、どの民族もどの地域も楽理も含めて体系的に音楽を構築する事はできませんでした。(ネウマ譜のコピーを添付しました)

[哲学と音楽]
ピタゴラスの影響を大きく受けた偉大な哲学者にプラトンとアリストテレスがいます。
プラトンはピタゴラスの数学的世界を受け入れ、この様な数学的比率論を宇宙規模にまで援用し、宇宙の調和はこの様な数式・数比関係により均衡が保たれているとしました。
音楽もこの世界の調和の中に場所がある、としたものです。
プラトンが開講した「アカデミア」の教科は哲学と数学中心ですが、予備科目として幾何学、天文学、音楽理論などが教えられたとあります。この様にプラトンに代表される古代ギリシャ時代の学問の展開が,後世「リベラル・アーツ(自由七科)」の源流となったわけです。
又、プラトンは著書「国家」の中で、師であるかの4大聖人の一人ソクラテス(紀元前5世紀)が音楽について語ったとされる言葉を残しています。
「音楽・文芸による教育は決定的に重要である。リズムと調べは魂の奥深くしみこみ
力強く魂をつかむ。人に気品のある優雅さを齎し、人間として形をつくり、正しく育てる。」

さてもう一人のアリストテレスはどうでしょう。彼はプラトンのアカデミアで20年間も学問を学んだ高弟でした。音楽の基礎に数比の関係がある事は認識しつつ、本来の音楽は,
人間の感覚に作用するものとしての音楽 → 重要な教育手段としての音楽 → 高尚な楽しみ・知的教養としての音楽、と言った考え方を示すに至りました。どちらかと言えば、教養としての音楽が前面に出され、芸術としての音楽と言った考え方を打ち出したと言えます。
これは弟子のアリストクセノスにも引き継がれ、ピタゴラス・プラトンによる数的・宇宙論的思考形態と、アリストテレス・アリストクセノス連合による感覚的・経験的思想との交錯した世界へと広がり、その後の中世に至る音楽を中心とした歴史のなかで変転を重ねながら伝播していったものであろうと思われます。
それにしても、ギリシャ的思考の基本をなす弁証法的考え方、即ち先のアポロvsディオニュソス、このピタゴラス・プラトン vs アリストテレス・アリストクセノス、による対位的
な考え方が音楽理論からも見られたことになります。その後の西洋哲学史上の弁証法理論との共通点が浮かび上がってきます。

[結びにならない結び・・・] 
プラトンのアカデメイアに端を発した真理探究の学問体系は中世の自由七科へと発展しました。これらは、文法学、修辞学、論理学(3科trivium, 人文社会学)、算術(数論)、幾何学、天文学、音楽(4科quadrivium, 自然科学)であり、中世以降広く各大学で取り入れられた教養科目となりました。将に現代にいたるまでのリベラル・アーツの原型であります。
余談ですが、ハーバード大学やMITなど多くの大学では古くから専門課程としての音楽学科が設置されています。また、教養科目としての音楽科目を選択するが学生が毎年1000名単位でいる事は驚きです。ギリシャ以来のムシケー的世界観があるとは言え、学問の在り方、その実践、社会への影響などなど、考えさせられますね。

少し長くなってしまいました。この続きは又の機会が御座いましたら。
以 上

(註)本稿はさる私的研究会での「自由発表」の原稿であり発言内容の纏めです。  TRMC「談話室」用に一部書き直しました。何分音楽に関する豊富な知識をお持ちの団員の皆様ですが、恥ずかしくも勇を奮って提出させていただきます。当方浅学の身でありまして、皆様からのご教示を頂くのは大歓迎ですが、緻密な論拠での反論の才は備わっておりませんので、予め御了解下さい。

(参考文献) 
皆川達夫    「楽譜の歴史」音楽之友社
久保田慶一他  「決定版 音楽史」 同上
松田亜有子   「世界の教養・・・クラシック音楽全史」ダイアモンド社
金澤正剛    「ヨーロッパ音楽の歴史」音楽之友社
菅野恵理子   「MIT音楽の授業」あざ出版  
同上      「ハーバードは音楽で人を育てる」アルテスパブリッシング
パウル・ベッカー「西洋音楽史」河出文庫
(河上徹太郎訳)
岡田暁生    「西洋音楽史 クラシックの黄昏」中公新書

古川 方理「ポリフォニーの楽しみ」

先日、全日本合唱連盟の「ルネサンス・ポリフォニー選集」出版記念コンサートに誘われ、晴海の第一生命ホールまで雪の中を出かけていった。15世紀イギリスのダンスタブルから16世紀スペインのビクトリアまで、合唱コンクール課題曲に選ばれた曲を、混声及び同声合唱の曲集にまとめた楽譜が出版された。その発表記念として、名手といわれる合唱団が名曲の演奏を担当するというものだ。

ポリフォニーとは、多声音楽と訳されるが、正確には多旋律音楽と訳するのが相応しい。我々が普段親しんでいるトップやソプラノに旋律が来て他がハーモニーを付ける形の音楽は同じ多声音楽でもホモフォニーといい、縦がそろった(ホモ=同一の)音楽であるのに対し、ポリフォニーは、フーガ(遁走曲)やカノンに代表されるように、あるパートが主旋律を歌い始め、次が4度下あるいは5度上から旋律を追いかけ、また次が、主旋律を再現するというように、旋律が基礎になり音の重なりが和声の変化を生む。同じ多声音楽でも、それぞれのパートが独立した旋律を歌い、同時に縦の関係で和声を形作ることが最大の特徴であり魅力だ。ポリフォニーの終結部分にはホモフォニーを用いた終止も多用されるようになり、さらにベネチアのサンマルコ大聖堂の大きな空間を利用した二重合唱様式、主旋律と通奏低音にハーモニーを合わせるバロック様式へと変化していく。

第一生命ホールでは、16世紀までのポリフォニーばかり18曲を一気に聴いたが、混声もあれば同声合唱(女声または男声)もあり、退屈するどころか珠玉の作品の端正な響きと密度の高い表現に圧倒されっぱなしだった。印象に残った団体は、金川明弘指揮の首都大学グリークラブ、岸信介指揮の東京ウィメンズ・コーラル・ソサイエティ 松村努指揮のコンビニール・ディ・コリスタの三団体。特に最後のコンビニは、昨年度全国合唱コンクールのグランプリ団体なのだが、圧倒的な素晴らしさに耳が洗われる思いをした。歌われたビクトリアのO Magnum Mysteriumとはキリスト生誕の秘跡の意味、冒頭のO Magnumの五度音程に続いて五度下から始まる対旋律と、先行パートが作る五度の響き、Mysteriumの神秘を表現する半音進行での五度が、いずれも平均律より僅かに広い完全5度の明るい響きで意識的に作られ、進行に合わせて絶えず耳で響きを合わせるのを目の当たりにした。

我々の男声合唱においても、ベースとセカンドによるオクターブ、ベースとバリトンの5度が響きを形作る根幹であり、特にベースとバリトンのつくる5度が響きを決めるのだが音程がぶら下がり気味のことが多い。耳からより美しい響きの音を自ら探し求められる(これを「耳を開く」といいます)よう、和声を聴きながら歌う練習を取り入れたいと思う。デュオーパのミサではポリフォニーで書かれた部分がほとんどないのが残念。

余談だが気に入った残る二つの団体の指揮者は、1982年の三商大復活の演奏会の合同演奏(リストのレクイエム)の4人のソリストのうちの2人。メルクールの指導をされていた増田順平先生が日本合唱協会の精鋭を集めたとの触れ込みで、セカンドを取られた金川先生のピタッとつける和声感覚のすばらしさに驚嘆した記憶が蘇った。

私は普段はどちらかといえばクラシックをオールラウンドに聴くが、最近はモーツァルトを聴くことが増えている。中でも2つの協奏交響曲とピアノ協奏曲がマイブームで、先ごろ引退を表明したポルトガルの女流Maria Joao Piresの旧録音、内田光子女史がイギリス室内管弦楽団といれた旧録音と最近のクリーブランド管との弾き振り、旧東ドイツのAnnerose Schmidtとマズアの録音など、協奏交響曲では弦管の名手の珍しい録音をとっかえひっかえしながら、CDとアナログレコードの再生(収集?)にはまっている。このほか、集めるでもなく音盤が溜まってきたのが、バッハのロ短調ミサと無伴奏バイオリンソナタ・パルティータ、シューベルトの弦楽五重奏ハ長調と、同じくハ長調のグレートなどで、再生リストの上位を占める。歌ものは普段は女声ボーカルに偏ってるなあ。

最後にもう一度本題のポリフォニーについて。ルネサンス音楽は非常に奥が深く、そこからさまざまな時代の音楽につながっていくのが面白い。聴くのも楽しいが、歌ってみることでさらにその魅力に触れることができる。機会をみて、六甲でも何ができるか考えていきたいと思っている。
                   古川方理 B2/団内指揮者

田邉 弘幸「コレクター(収集家)」

どうやら人には「収集癖」があるようだ。収集癖なる烙印を押された御仁に対しては、何やら偏屈さを覚えたり、少し変人扱いをしたくなる風情もあろうか。コレクターと呼んだ方が良いのかも知れない。「収集家」と呼べば多少は上品に聞こえるから不思議だ。収集家は男女比で見ると圧倒的に男性が多い。殆どの男性は程度の差こそあれ収集家としての顔を持つ。心理学的分析に基づくコレクターの心象と背景が幾つか挙げられている。曰く:
  寂しさを隠す為・・・あるモノを収集する事でその人の行動様式が多彩になる。
  狩猟本能がある・・・食糧確保は生存そのものであり、成功者は女性にもてる。
  脅迫的な心理から・・人は上昇機運を持つ。もっと上を見なければと思いたい。
  ライバル意識 ・・・優越感、尊敬されたい、強くなりたい願望。
  その他幾つか ・・・負けず嫌い・執着心・完璧主義などなど。
(収集家を以って自認される皆様方の心象背景は何処にあったのでしょうかね)

古来、絵画、骨董品などの高価なアイテムから、身の回りの取るに足らないけれども自分にとっては譲れないモノ、などなど、あらゆるものがコレクションの対象となってきた。
先ずは印象に残っている話をひとつ。米国で何度か映画化された「コレクター」と言う映画。1965年巨匠ウィリアム・ワイラー監督による名作がある。但し些か猟奇主義的傾向あり、ジョン・ファウルス原作の同名小説を下敷きにしている。 又、原作は異なるが良く似たプロットでは有名な「青髭公の城」と言うバルトーク唯一のオペラがある。前者は蝶のコレクターである青年が一人の若くて美しい女性と出会う事により蒐集の対象が変化してゆく事を暗示させるエンディングが恐ろしい、後者は領主の新妻が3名の前妻達が捉われている事実を探り出すも何故か4人目の捉われ人となってしまう・・・不条理な話。 グリム童話にも異性を愛するあまり次々と自分のモノとしたい欲望にかられる青年が出て来ると言った寓話もある。人間が持つ心象背景の一つであるとすれば、収集癖とは恐いものである。

翻って、健康的な世界で育った私のコレクションは全く可愛いものであった、少なくとも当初は。小学生から中学生に向け切手の収集に大きな執着心があったことを思い出す。
自分の意思と言うよりもむしろ受け身でのスタートだった。伊勢市に住んでいた祖父(及び先祖)が伊勢神宮に関係していた事より、当時同居していた祖父宅で見つけた、幾つかの古銭、明治時代の切手、初期の葉書、等を我がものとするとともに、孫には優しかった祖父に小銭をせびり少しずつ記念切手等を買い集めた記憶がある。
次の出会いは母親の影響の下に始まった。1959年中学3年生の時だった。音楽大好きの母が買ってくれた初めてのLPで定価は2500円。当時の平均的な月給は2万円強。
ボーナス時に買ってくれた。これが何とワルター指揮になるモーツアルト交響曲41番とベートーベン交響曲6番。以来、高校・大学と多岐にわたるジャンルのレコードを買い求め続けたものである。特に大学に入ってからは、アルバイトの収入を全て中古LPにつぎ込んだ。当時三ノ宮駅と元町駅の間にあった中古レコード専門店「ワルツ堂」のオヤジには随分とお世話になったものだ。日本では未だレコード録音が少なかったマーラーに染まり青春の息吹と喧騒にのめり込めたのもワルツ堂のお蔭だと思っている。
これが高じて1980年7年間のニューヨーク駐在からの帰国時、買い入れたLPは何と2500枚。狭い日本の家屋の壁を粗2面を独占し、カミさんの大顰蹙をかったものである。室内楽、バロック中心のコレクションであった。数年後市場ではCDが幅を利かせ始めた時の遣る瀬無さは相当のものであった。
そして最後の浪費は事もあろうにAutographに興味を持ってしまった事であろうか。
2度目のNY駐在時、それはリーマンショックの後であり、オバマ大統領の就任直後でもあった。作曲家・音楽家限定のオートグラフ(オリジナル)がその対象であった。ロマン派以前のBig Nameは当然手が出ない、これらはMuseum向けである。マンハッタンには大手の古本屋、オートグラフ専門店が3店ある。中で、E34丁目にありそれ自体が歴史的建造物でもある間口の狭い古本屋の6階にオートグラフ専門のフロアーがあった。歴史家、作家、政治家、プロの運動選手等あらゆるジャンルの有名な人物のオートグラフが数多く並べられていた。無論音楽関係も少数ではあるが置かれていた。Naomiと言う上品な初老のご婦人と仲良くなり、ヒマを見つけては彼女と無駄話をする為に34丁目に通ったものである。此方のフトコロ具合、趣向、等を知って彼女が出物の連絡を呉れ、時には現物をみて時には電話でのオークションに参加すべく胸を躍らせたものだ。最大の自慢はマーラー自筆のハガキで、第6交響曲を演奏する際にその指揮者宛てに書かれたものである。
ストラビンスキーとフォーレのサイン入り手書き楽譜、と言っても前者は8小節のポルカ、後者は6小節の歌(メロディ)、等は少し奮発した。但し、シュ―ベルトなどが酒席で戯れに書き散らかしたリートの断片の如しであり、当然作品番号なんぞある訳がない。他にもそれほど高価な堀出し物ではないが、ドビュッシーの手紙、プッチーニが書いたハガキなど10点強を自宅と会社の部屋などにヒッソリと掲げてある。
最近これらを眺めてニンマリとする機会も減ってきた。
扨て次のタ-ゲットは何であろうか?  残された時間は余り多くは無さそうだが?

此処まで筆を進ませてハタと気が付いた。 一つはカミさんの目を忘れていた事。
二つは冒頭に書いたコレクター心理を考えてもいなかった事。
執着心? 負けず嫌い? 脅迫的心理? 褒めて欲しかった? etcどれが嵌るのだろう。
自省は何時も後からくる。 コワイ、コワイ、皆さんもご注意あれ。

大隅 孝二「作詞家 谷川俊太郎展をみる」

本番が近づくと 改めてもう一度歌詞を読み直して 考える時間がくる
今がちょうどそのころである
 今年の第7回の定期演奏会には 谷川俊太郎作詞のうたが 3曲もある
その詩は平明でくっきりしている
使っている言葉自身に すでに 音が息づいている
歌えば楽しい
  われわれは 長く 同じ時代を 生きてきた
彼は 詩人 脚本家 翻訳家 絵本も書く
どれかではなく どれもやって 素のままの自分を 楽しんで生きている
その谷川俊太郎 ”展”があると 藤本さんに教えられて オペラシテイにいった
その印象の小さな報告である

”展“入ると  なに これ
そして あたりを見回す
”展“のイメージは たちまち こなごなに散って
ことば ひかり コピー 写真 音が ちぎれ飛んで
そして あちらからも こちらからも どっと返ってくる
こんな雰囲気は どうかな
こんなイメージは いかが
こんな音は どうかな
こんな色は いかが
それらの渦に 喜んで身をゆだねて
面白さ 楽しさ なつかしさに 夢中になる 漂っている
コアのところに タニカワ シュンタロウが いる
命尽きるまで いっしょうけんめい 遊ぼうとしている人が いる
どんな人たちと お互いに いっしょうけんめい 遊んできたか それもわかる

”展“には 1冊の詩集もなかったが
胸いっぱいに 思いを抱えて帰った

團野 廣一「男声合唱が愉しい」

私は、1993年に三菱重工から三菱総研に転出、2004年に同社を辞したが、その後も今日まで7件の社・財団法人、ベンチャー会社を手伝っていて結構多忙であったし、今も「忙しがり屋」を続けている。しかし、古希を迎えた時、時間に追われる生活の中でも少しはゆとりをもってQOLを保持したいと考えた。爾来3つの目標を定めて、今も私なりにそれらの目標に向けて努力している。 一つは劣化する頭を敢えて使うこと。リベラルアーツ研究会に入り、自由学習の結果を発表し合っている。その読書会ではアダム・スミスやマックス・ウェーバーの代表著作を読み直してきた。今は西洋法制史に取り組んでいる。 二つには衰えた身体をなるべく動かすこと。毎日2回のラジオ体操、一日7000歩の歩行、週一度の下手ゴルフのプレイを励行している。 そして最も力が入っているのが三つ目の男声合唱の練習である。 2002年に神戸大学グリークラブ同窓の10人余りではじめたが、15年続いた今では約40名が毎週火曜日に神田の教会に集まる。 昨年からは、ヴォイス・トレーナーとして東京芸大オペラ科修士課程修了のバリトン歌手伊藤純氏を迎えた。 また、合唱指導者としては、10年間指導願った仲子誠一氏(東京芸大ピアノ科卒)に代わって、同大声楽科卒で各地の合唱団・吹奏楽団・オーケストラを指導しながらソリスト(テノール)として活躍する竹内公一氏を招聘している。 合唱団員は70歳以上のシニア中心であり、合唱経験のない方々もいて、団全体としての歌唱力には限界がある。それでもPCで音源が送られるから各自が自宅で予習出来る。指導者宜しきを得て実力は少しずつ上がっているように思う。継続は力である。

毎回の練習は、まず10分のストレッチ体操、20分の発声練習・和声訓練から始まる。歌詞の発音とリズム読み、パート別譜読み(音程・テンポ・リズム・曲想)、全員合唱練習と進む。150分の練習である。今は来年の定演に向け人気作曲家・信長貴富の日本の歌とシューベルトのWINTERREISE(冬の旅)の男声合唱版他に取り組んでいる。昨年はケルビーニの男声レクイエムを演奏した。今年5月にはワグナーのタンホイザー他オペラ合唱曲4曲をオーケストラ伴奏で歌った。

私は月に3-4回は各種の演奏会に出かけるが、やはり人の声帯が最も優れた楽器であると思っている。音量・音質だけでなく歌詞で表現できるから感情移入も容易で歌い手と聴き手の共感も得やすい。兎に角、声楽曲が好きである。 さらに合唱曲となると和声によって幅の広さと迫力に訴える力がある。各人の声はデリケートに異なるがうまく合うと最高の空気を体感できる瞬間がある。 合唱は聴くのもよいが仲間と共に歌い合うとそれぞれの実力に応じてそれぞれが愉しむことができるのが良い。特に男声合唱は混声に比べて声が同質でハーモニーがとり易く感動できる。 最近発声練習の成果が出てきたのか、わが団の中でも「倍音」を聴けるようになった。例えば、ベース・パートが声をそろえて基本周波数C(ド)を発声すると、第5倍音のE(ミ)や第6倍音のG(ソ)がかすかに響く。このように各パートの声が一本にまとまった状態で4声部が合唱すると、音程の協和だけでなく自分の声が全体の音響に吸い込まれるような感覚になり無類の快さに浸ることができる。 わが国合唱界の神様と言われる田中信昭氏によると、「倍音から導き出された音律・純正律で音を合わせるとC(ド)=1を基準とする周波数比率が単純な整数の音程で重なるときに歪みや唸りのない美しいハーモニーを創ることができる」という。確かに、長三和音即ちドミソ・ファラド・ソシレの和音は、いずれも周波数比率が4:5:6である。

さて私の場合、中学・高校ではバレーボールの選手をしていたので、合唱には縁がなかったが、大学に進学してグリークラブに入部 闇雲にロシア民謡や黒人霊歌等男声合唱曲を歌いまくった。それでも4年間もやっていると楽典の基礎もわきまえて譜面は自由に読めるようになり、それなりに重厚なハーモニーも愉しめるようになった。 しかし、1956年三菱造船に就職すると、5年余り長崎造船所勤務中は長崎に男声合唱団もなく折角の愉しみを続けることはできなかった。 本社に転勤になっても数年間は三友合唱団(混声)には参加したが男声合唱には縁がなかった。 1966年から3年は海外勤務、帰国後も発電プラント輸出という海外出張が多い超多忙職場に配属され、その後の国際部・社長室勤務でも仕事に追われ、また三菱総研への転職もあって、結局、合唱活動なしの空白期間は35年余りにもなった。 ただ、その間も決して音楽への関心を失うことはなく、寸暇を惜しんで音を求め音を聴いてはいた。休日は、自宅でオーディオを鳴らし、演奏会にも足繁く出かけた。海外出張中も土曜・日曜が入ると、例えばニューヨークではカーネギーホールへ駆けつけブロードウェイの空席を探した。メキシコではマリアッチ広場へ毎夜のように通った。ブダベストでジプシー小屋へ迷い込んだこともあった。

2002年に、前述のとおり、漸く「東京六甲男声合唱団」を立ち上げ、長年待ち望んだ、仲間と共に愉しむ居場所が出来た。発足当時に比べると随分レベルが上がり、昨年からは、前述の様に、八面六臂の活躍中の立派な指導者二人を迎えて刻苦勉励に努めている。所詮は素人の趣味の域を出ないが、日々新たに学ぶところがありそれなりの達成感は得られる。アンサンブルが愉しめるのが嬉しい。

本稿を記述していて、何故自分がこんなに音楽好きになったのかを振り返ってみた。 一つは父親のDNA。父は若い頃オーケストラのメンバーであったらしい。大変な音好きで私の幼少の頃から電気蓄音器で毎晩レコードを聴いていた。 二つには小学校の担任教師が音楽の先生であったこと。当時の軍国少年教育では軍歌ばかりを歌っていたが、譜読みや調音等ソルフェージュを教えてくれた。 そして三つ目が大学のグリ―クラブで資質豊かな仲間たちに出合えたことである。これらの影響が私の音楽好きの後天形成となったのであろう。父親、小学校の先生、グリークラブの仲間達に感謝するばかりである。

受け売りであるが、孔子の言葉に「子曰く、詩に興り礼に立ち楽に成る」というのがあるという。言葉を習得し礼節を心得るだけでは人間は熟成しない、最後は 音楽である、というのである。十有五にして学に志し中国琴を奏し作詞作曲もした孔子は、人間の原点を踏まえれば最後は「楽に成る」と説いたのである。 男声合唱に興じていて「楽に成る」とは思えないが、数多くの演奏にも触れながら自分でも精一杯歌い続けて、晩年の豊かなQOLの一助としたいと思っている。

飯塚 和憲「英語でジョークの試み」

英国駐在の頃、いつも当惑したのが、英語のジョークがわからないことでした。パーティに出ていても、挨拶をする人がジョークを連発しているのに、さっぱりわからなくて、顔がひきつったような状態で、笑ったふりをすることしかできず、いつも悔しい思いをしていたものでした。
しかし、その後、ヨーロッパの友人の助けをかりて「研究」した結果、ついに英語のジョークにも言葉の「シャレ」を題材としたものがあることがわかり、それなら自分にもできる、と思いなおして、ジョークを言う機会を、ひそかに、いつもねらうようになりました。

その結果、努力の甲斐あって、やってみたら「これはうまくいった。」と思えるものが、わずかですがありました。
その中で、二つの例をご紹介したいと思います。

一つ目は、話題が古くて恐縮ですが、アメリカの大統領選挙にまつわるお話です。だいぶ昔のことですが、仕事でアメリカの国務省の課長とパリで食事中、その場面に巡り合いました。その課長が、「今度の共和党の大統領候補、副大統領候補は、それぞれブッシュとクウェイルだ。」と教えてくれました。
チャンス到来です。私は即座に「それは、非常に良い組み合わせだ。」と応じました。当然相手は、「なぜあなたはそう思うのですか。」と聞いてきます。そこで私がにっこりして、「だって、クウェイル(副大統領候補ご本人とスペルは違うが、クウェイルは英語で「うずら」のこと)は、いつもブッシュ(藪)の中にいるじゃないか。」と言ったら、予想以上に相手に受けたのです。
英語に関心があり、「うずら」を英語で何というか記憶していたことが、英語でジョークを放つ機会を与えてくれたのです。

次は、英国での勤務先でのことです。勤務していたある日本人が帰国するので開かれた送別会で、テーブルに並べられた、今まで見たことのない揚げ物が気になりました。そこで、近くにいた若い英国人女性に「これは、何ですか。」と聞いてみました。するとその女性が、「私たちが近くのギリシャ料理店で買ってきたものよ」と言います。私は、やや声を大きくして「They are all Greek to me.」と言ってみました。このとき、嬉しいことに、そばにいたある英国人男性から、「Well-done(お見事!).」とのお褒めの言葉がいただけたのでした。
では、なぜ、私の言った言葉がその英国人に受けたのでしょうか。
それを解くカギは、「Greek」という言葉にあります。「Greek」は、「ギリシャの」という意味のほかに、「チンプンカンプンだ」という意味があるからです。これは、アングロサクソンたちには、ギリシャ語は、「さっぱり意味のわからない」言葉だったからでしょう。高校の授業で習ったそんな「つまらない知識」が、思わぬところで役に立ったわけです。

このように英語でジョーク(シャレの形で)をいうためには、「ネタ」を沢山自分の頭の引き出しにためておき、すぐ取り出せるようにしておくことが、秘訣だと思っています。

私にとっての「ネタ」の例を一つ挙げますと、例えば「polish」という言葉に注目できます。この言葉は、「磨く」という意味と「ポーランドの」の二つの意味を持つので、いつか使えるチャンスが来るのではと、頭の中の手前の引き出しにしまっています。かつて、英語の達人である市河三喜先生が、この言葉を使って見事な英語のシャレを言われたと聞いたことがあります。しかしながら、凡人の私には、そのチャンスはまだ来ていません。

兵藤 力一「留学生に日本語を教えて」

 今私は週3~4回日本語学校で留学生に日本語を教える仕事をしています。おなじみのない方が多いと思いますので、少しご紹介したいと思います。

 50歳代も半ばに差し掛かった頃、第二の人生をどのように送ろうか、具体的に考えるようになりました。できれば海外、それも途上国に何らかのかかわりのあることをしたいと思いましたが、事務屋の私には、技術系の方々のように、外国で技術指導をすることなどできません。そんなときに、日本語教授の仕事なら、海外に行っても国内に居てもできるのではないかと考えたのがきっかけです。

 日本語教師になるためには、次の3つの条件のうち、1つを満たすことが必要ということになっています。(あいまいな言い方をするのは、教員免許のようなものがなく、これにあてはまらない人も存在する余地があるからです。)
 ①大学で日本語教育を主専攻または副専攻
 ②大卒者が民間の日本語教師養成420時間講座を修了(内容は①に相当)
 ③日本語教育能力検定試験に合格(学歴不問)
私の場合、②と③をクリアして一応有資格者になっています。

 日本語学校で授業を始めてみて「これはとても長い間続けられない」と思いました。教える内容が特別難しかったわけでも、学生諸君に反逆されたからでもありません。1コマ45分X4コマすなわちほぼ半日を、休憩時間以外立ちっぱなしで、結構動きもあって、しかも大きな声で話さなければならないため、腰は痛いわ、喉は嗄れそうになるわで、会社勤めのほうがよっぽど楽だ(?!)と思ったものでした。しかし、不思議なものでいつの間にかそれにも慣れるようになりました。

 とは言っても、授業だけすればいいというものではありません。宿題ほか学生の提出物のチェック、翌日以降の授業の準備、テストやプリント類の作成、学生の進路指導等、授業以外にやることはいくらでもあります。さらに時々実施される学校行事へも参加しなければなりません。いきおい「萬里」への参加も毎回というわけには行かず、「反省」不足の日も出てくることになります。

 さて、今日本には大学院・大学・専門学校・日本語学校等に約210千人の留学生がいます(平成27年5月現在)。このうち日本語学校にいる学生は約56千人で、日本語学校終了後、専門学校や大学に進学を希望する学生がほとんどです。日本は自国語で高等教育を受けることができる大変恵まれた国(自国民にとっては)ですが、留学生にとっては日本語という世界的にはポピュラーとは言えない言語を学ぶことが必要条件となります。
 日本語の発音や文法は、他の言語に比べて特別に難しくはないと言われています。特徴的なものとしては、
 ①文字表記の体系が複雑(ひらがな、カタカナ、漢字、音読み・訓読みなど)
 ②敬語が難解であること
 ③擬音語・擬態語が多彩であること  などがあげられ、
これらのことから、多くの単語を覚えることが必要不可欠になってきます。

 1,000語で一般的なコミュニケーションに必要な語の何%を占めるか調査したデータがありますが、英語・フランス語・スペイン語では80%以上、中国語・韓国語でも75%程度であるのに対し、日本語では60%程度に過ぎず、80%に達するには4,800語程度必要とされています。
学生諸君は、これら文字・語彙のほか、文法、読解、聴解など日本語能力試験科目を中心に頑張って勉強に取り組んでいます。(そうでない学生もいますが)

 最近は以前圧倒的多数を占めていた中国や韓国からの留学生のウエイトが下がり、母国で漢字を学んだことのない学生が急増しています。私のいる学校では、ベトナム、ネパール、ロシアなどの学生が増えており、皆頑張っていますが、漢字には苦戦しています。

 今教師として最大の悩みは学生たちの進学先の確保です。日本語学校の学生数はここ3年で2倍以上になっており、大学や専門学校も定員を増やしていますが、進学は年々厳しくなっています。従来なら年末ごろから動いていた進学も、今は秋になったら具体的に行動しなければなりません。我々も上級学校への「推薦書」を毎日のように書き、合否に一喜一憂することになります。
2,3年前なら推薦書をつけて受けさせたら大抵合格が得られたのですが、最近は競争率が高くなってそれは夢のまた夢になってきました。
複数の学校の出願、試験、発表、入学金支払いの締切などのスケジュールをダイヤグラムのように書いて(これは留学生諸君が苦手とするところです)、受験指導をする日々がもうすぐやってきます。

 この仕事をして良かったと思うことは、何と言ってもまず諸外国から来る若い人たちと日常的に接することです。授業や進路指導のように具体的なことだけでなく、毎日の挨拶や雑談の中でお互いに刺激を与え合い、我々高齢者にとっては、はやりの表現を使えば、「元気をもらう」ことができます。親しくなったら「先生、昨日も秋葉原で飲みましたか?」などという会話も出てきます。また、街で卒業生に「先生!」などと呼びかけられるのも楽しいものです。

 さらに同僚の先生方も、私と同じような高齢者も少なくありませんが、やはり若い、しかも女性の多い職場で、そういう先生方と上下関係のない仲間として(年齢にはそれなりの敬意を払っていただいていますが)、チームを組んでクラスを担当することは、責任も伴いますが、とても気が若くなるのを感じます。そんなわけで、しばらくはこの仕事を生活の中心にして、前期高齢者生活を送っていきたいと思っています。

上山 維介「雑草に纏わる独り言」

 菊川春三(しゅんそう)さんからバトンを受けて、ふと思い浮かべたのが、菊川さんのお名前から春の日差しをうけて青々と芽生え始めた「春の草」でした。日頃から、どこにでも生えてくる雑草の逞しさに親しみと一種の愛着があり、独り言を書くことにしました。

 「雑草」とは、広辞苑によると「自然に生えるいろいろな草。また、農耕地で目的の栽培植物以外に生える草。」と書かれている。前者はある学者が話していたが「野道に生えて季節の折々に美しい花や、緑で楽しませてくれる草」、後者は「畑や田んぼで野菜やイネと競合して生育し、生産物の生育や収量に影響を及ぼす草」で生産農家にとっては大敵である。
 「雑草」が人に異議を申し立てる。「雑草」は人が勝手に作った言葉であり空き地や駐車場に生えて困るとか、人が大事に育てている植物のわきに生えて大事な植物の生育を阻害することから引き抜かれたり防除されるのは人の横暴だ。雑草も一つ一つ名前があり学術的に認められている、総じて「雑草」と呼ばないでほしい。人は言う。「雑草君、君たちは人にとって都合の悪いところに生えるから嫌われるんだ。私たち人間は君たちをそんなに悪く思っていないよ。むしろ雑草魂とか君たちの逞しい生き方を賛美しているぐらいだよ」と。
 確かに人の勝手気ままな呼び方だ。薬草や山菜は漢方薬や美味しい食材として用いられるから人は「雑草」とは呼ばない。草食動物にとって美味しい草も美味しくない草もあるが、「雑草」の区別はない。黙々と好みの草を優先に食べている。人が草食動物を貴重なタンパク源としているのだから、草食動物が食べる草は雑草とは言わない。ただ、ワラビ、ゼンマイの類は動物は腹を壊すから、人は牧草地からこれらを取り除く。これも人の勝手な行動だ。
 土砂崩れや地形の変形を防いだり、農作物の栽培で下草が必要であったり、人は「雑草」の是非を見極めながら上手く付き合っている。「雑草」は枯れてもきちんと子孫を残すから、この「人」との関わりは永遠に続くであろう。

菊川さんと「雑草」は全くつながるものでありません。お名前を拝借して失礼をいたしました。

この度の熊本地震の被災地の皆様ならびに関係者の皆様にお見舞いを申し上げます。5年前の東日本大震災を思い出しました。大変なショックでしたが被災地の皆様が自ら、また日本全体が元気を出そうと旗揚げし復旧に取り組みました。私たちの定期演奏会の年に、このような震災が起こりましたが、私たちが元気に楽しく歌うことが元気の輪を広げられると信じて、しっかりと歌っていきたいと思います。

菊川 春三「思い出すこと(父の話)」

 だんだんと年を取るにつれ、昔の記憶は薄れるものですが、この頃、何かの折に父を意識している自分に気づきます。曖昧な記憶ですが、思い出すままに、父のことを書いてみました。

 その前に、まず、自分自身のことですが、私は所謂【団塊】の、それもど真ん中、昭和23年生まれです。堺屋太一さんのお陰で変に一括りにして語られ、社会学の格好のネタにされることもあるようですが、当事者(?)としては迷惑な次第です。私達の数が多いのは、単純に、敗残兵が生きて帰ってきた喜び(あるいはヤケクソ)をそのままぶっつけた結果に過ぎないと思うのです。何せ小さいころから数が多すぎて何事も損ばかりしていたという被害者意識はあっても、得なことはなかったかなと思います。父も、私が中学生になった頃、好きだった晩酌の四方山話の中で「春三達にもエライ迷惑を掛けたな」ということがありましたが、冗談半分でしたね。

 父の晩酌に付き合うのは楽しみでした。酒のさかなのおすそ分けがあったからです。おかげで、小さいころから、しめ鯖(家ではキズシと呼んでおり、正月の膳の定番でもありました)とか鱈子の煮つけ、鯨ベーコンが好物の子供でした。父の耳タコ話としては、酒を飲むと良く子供たちに向かって、酒は飲むな、煙草は吸うな、というお説教がありました。ほろ酔い機嫌で、「お父ちゃんはええんや。お前らは体に悪いことはせん方がええ」という勝手な話です。全然説得力がありませんから、こちらも聞き流している訳です。それでも、酒は程々に飲みますが、煙草は一切やらないという人間に仕上がったのは遠い日の父の刷り込み(?)の効果かも知れません。

 そう言えば、父は戦争の話は好みませんでした。良い思い出等がある筈もないのですが、一度だけ真面目に語ってくれた話は息子を切なくも安心させるものでした。父は大正四年生まれの人間としては身長が高い(175cmありました)半面、痩せぎすで、軍の身体検査では丙種合格(不合格になる一歩手前)でした。即ち、検査後に一旦は自宅待機となったものの、戦局が厳しくなり、それこそ総力戦にならざるを得なくなった昭和19年末になって初めて召集されてしまいました。その前年に長兄は生まれておりましたから、父(そして母)としては泣く泣く戦場に追いやられた訳です。ただし、不幸中の幸いというべきか、召集先は九州宮崎でした。父の話では、そこでは毎日、訓練と所謂「たこつぼ」掘りに明け暮れたそうです。いつ来るか分からないアメリカ軍の上陸に備えたものであったのでしょう。勿論、上級兵の日常的暴力に曝され、翌年の8月15日まで辛い日々だったことは間違いありません。しかし、「自分は下級兵を殴ったことはない、勿論人殺しもしていない」、という言葉は、息子としては「ありがたい」ものでした。

 母から聞いた話ですが、敗戦後、父は割と早く、一月ほどで帰ってきて、途端に素裸になって、社宅になっている長屋の共同庭で着ていた服を燃やしてしまったそうです。恐らくは、蚤・シラミ等の害虫類を一網打尽にすることと、軍隊時代をすっぱりと切り離すことだったのでしょうか。

 その後、次兄と私がほぼ年子のようにして出生した訳ですが、他の家庭も似たような事情であったと思います。その結果、団塊となってしまったのですから、誰からも責められる話ではありません。運命と言ってよいものです。

 さて、終戦になって帰って来た父は、以前のとおり、自転車用タイヤやサンダル等の日用品を作る町工場に勤め続けました。営業と経理の両方を兼務していたものですから、毎月、岡山から四国方面の得意先回りをやっていました。小学校の低学年になるまでは、次兄と久しぶりに帰って来た父を取り合い、夜は父の布団に競争で潜り込んでは寝場所確保を争ったものでした。この時代は今現在ほどには貧富の差が無かったからだと思いますが、つぎの当たった半ズボンをはき、ハンカチなどは持っていなくても平気でした。というか、持っている子がいた記憶がありません。パッチワークのようにした、つぎの当て方がしゃれている子はいましたが。

 出張に出かけていない普段の父は朝決まった時刻に家を出て、歩いて10分程度の会社に行き、夕方になると、これまた決まった時刻に帰ってくるという毎日でした。小学校に上がる以前の私は時々ですが、父を迎えに行ったことがあります。今思い返すと、正門を入って右手に木造の2階建ての事務所があり、玄関を開けるとカウンターの向こうで父が何やら執務をしている姿が見えました。父は私が声を掛ける前に気づいて自分の席に呼んでくれるのでした。そして、暫くすると周囲の人々に挨拶して一緒に帰るのですが、幼い私は、ひょっとして、待っている間に周りの人から構ってもらうのが嬉しくて父を迎えに行ったのかも知れません。時々残業する工員さんのおやつになるアンパンをもらったりもしました。

 父は平成元年に亡くなりました。もう、半世紀以上前の脈絡の無い思い出です。都合よく脳内で美化しているような箇所はあると思いますが、懐かしい父の思い出の切れ端です。機会があれば、又綴ろうと思います。

浅井 彰二郎「二年生になりました」

 小、中、高と同じ神戸で同窓同期の、滝沢の章ちゃんに誘われて、2014年7月に入団しました。前回の演奏会をいっしょに聴いた妻も、「楽しそうじゃない、入ったら?」と言ってくれました。入団の挨拶では、「夢はセミコンダクター屋からコンダクターになること」と大口をたたきましたが、今の本音は、「練習について行くのがたいへん」です。

 しかし、東京六甲男声では、合唱の初心者に対し「合唱基礎講座」を施してくれます。合衆国の渡来者教育、citizenship programのような寛大さに感心、感謝しています。練習日には、毎回新鮮な驚きと刺激があります。若き好奇心の呼び覚ます不思議な充足感があり、これなら続けられそうです。達成感の方はこれからですが。

 ところで、先日の総会で、予算議案に端を発した、指揮者の責任と団員側の自己研鑽についての論議と、それに対する幹部と指揮者のリアクションを、すばらしいと思いました。常に向上をめざす組織ならば欠くことのできない、自律的な改善能力を見た思いです。内部での自由闊達な意見の交換を許す、という、この合唱団の本当の力だと感じました。

 レパートリーはむろん国際的、経験を異にする団員の個性も多様、発生母体である神戸大や旧商大グリーのネットワークに止まらず、異分子も取り入れて伸びて行く東京六甲。根っこにはやはり港都神戸の精神があるのかもしれません。後や横から聞こえる先輩方の頼もしい声音に励まされ、練習より得意な「万里のいっぱい」を楽しみにやっています。