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談話室

滝沢 章三 オートバイを手放すの記

16歳のとき、学校をサボって明石の大蔵谷にある運転試験所に行って軽免許を取ってきた。試験車はボロボロのラビットスクーター。これが私のオートバイとの付き合いの始まりである。

大学2年、姫路の教養を終えて六甲台に来た頃、須磨寺商店街の豆腐屋の息子が「廃品業者のところに電報配達のオートバイが放出された。まだ十分に乗れる。5千円だ」と教えてくれた。アルバイトで家庭教師をやっていたので買える値段である。すぐに兵庫駅近くの廃品倉庫に行き、街でよく見かける空色のトーハツ125ccを手に入れた。

それから2年、くだんの廃品倉庫に淡路島で使っていた白バイが入った。メグロ(現、カワサキ)の単気筒500cc。当時としてはまだ少数派の大型オートバイライダーになった。28歳のとき、二人で乗れるようにとテントウムシのスバル360に乗り換えた。そして時が流れた。

還暦を前にしてオートバイの夢を見るようになった。「オートバイ」などと寝言をいたりしてみた。カミさんが諦めたので、ホンダのナナハンを求めた。当初は房総半島を中心に走ったのでボウソウ族となった。もう少しデカイものに乗りたくなったので、ヤマハの1300ccに乗り換えた。こいつは雪の降る夜中に盗難にあってしまった。落ち込んでいたらカミさんに慰められたので、BMW1100cc水平2気筒を求めた。BMWはよく走り、160㎞/h位は楽に出た。ETCと無線機を取り付け、仲間と一緒に西は神戸、北は青森まで走りまくった。73歳の時引越すことになり、オートバイを置く場所が無くなった。これを機に未練の一つを切り捨てた。切り捨てたつもりだが、未練が尾を引くのも人情。合唱仲間の長野さんと(彼もBMWに乗っていたが手術を機にバイクを手放した)レンタルバイクでどこか行くか、とこそこそと相談している。