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談話室

菊川 春三「思い出すこと(父の話)」

 だんだんと年を取るにつれ、昔の記憶は薄れるものですが、この頃、何かの折に父を意識している自分に気づきます。曖昧な記憶ですが、思い出すままに、父のことを書いてみました。

 その前に、まず、自分自身のことですが、私は所謂【団塊】の、それもど真ん中、昭和23年生まれです。堺屋太一さんのお陰で変に一括りにして語られ、社会学の格好のネタにされることもあるようですが、当事者(?)としては迷惑な次第です。私達の数が多いのは、単純に、敗残兵が生きて帰ってきた喜び(あるいはヤケクソ)をそのままぶっつけた結果に過ぎないと思うのです。何せ小さいころから数が多すぎて何事も損ばかりしていたという被害者意識はあっても、得なことはなかったかなと思います。父も、私が中学生になった頃、好きだった晩酌の四方山話の中で「春三達にもエライ迷惑を掛けたな」ということがありましたが、冗談半分でしたね。

 父の晩酌に付き合うのは楽しみでした。酒のさかなのおすそ分けがあったからです。おかげで、小さいころから、しめ鯖(家ではキズシと呼んでおり、正月の膳の定番でもありました)とか鱈子の煮つけ、鯨ベーコンが好物の子供でした。父の耳タコ話としては、酒を飲むと良く子供たちに向かって、酒は飲むな、煙草は吸うな、というお説教がありました。ほろ酔い機嫌で、「お父ちゃんはええんや。お前らは体に悪いことはせん方がええ」という勝手な話です。全然説得力がありませんから、こちらも聞き流している訳です。それでも、酒は程々に飲みますが、煙草は一切やらないという人間に仕上がったのは遠い日の父の刷り込み(?)の効果かも知れません。

 そう言えば、父は戦争の話は好みませんでした。良い思い出等がある筈もないのですが、一度だけ真面目に語ってくれた話は息子を切なくも安心させるものでした。父は大正四年生まれの人間としては身長が高い(175cmありました)半面、痩せぎすで、軍の身体検査では丙種合格(不合格になる一歩手前)でした。即ち、検査後に一旦は自宅待機となったものの、戦局が厳しくなり、それこそ総力戦にならざるを得なくなった昭和19年末になって初めて召集されてしまいました。その前年に長兄は生まれておりましたから、父(そして母)としては泣く泣く戦場に追いやられた訳です。ただし、不幸中の幸いというべきか、召集先は九州宮崎でした。父の話では、そこでは毎日、訓練と所謂「たこつぼ」掘りに明け暮れたそうです。いつ来るか分からないアメリカ軍の上陸に備えたものであったのでしょう。勿論、上級兵の日常的暴力に曝され、翌年の8月15日まで辛い日々だったことは間違いありません。しかし、「自分は下級兵を殴ったことはない、勿論人殺しもしていない」、という言葉は、息子としては「ありがたい」ものでした。

 母から聞いた話ですが、敗戦後、父は割と早く、一月ほどで帰ってきて、途端に素裸になって、社宅になっている長屋の共同庭で着ていた服を燃やしてしまったそうです。恐らくは、蚤・シラミ等の害虫類を一網打尽にすることと、軍隊時代をすっぱりと切り離すことだったのでしょうか。

 その後、次兄と私がほぼ年子のようにして出生した訳ですが、他の家庭も似たような事情であったと思います。その結果、団塊となってしまったのですから、誰からも責められる話ではありません。運命と言ってよいものです。

 さて、終戦になって帰って来た父は、以前のとおり、自転車用タイヤやサンダル等の日用品を作る町工場に勤め続けました。営業と経理の両方を兼務していたものですから、毎月、岡山から四国方面の得意先回りをやっていました。小学校の低学年になるまでは、次兄と久しぶりに帰って来た父を取り合い、夜は父の布団に競争で潜り込んでは寝場所確保を争ったものでした。この時代は今現在ほどには貧富の差が無かったからだと思いますが、つぎの当たった半ズボンをはき、ハンカチなどは持っていなくても平気でした。というか、持っている子がいた記憶がありません。パッチワークのようにした、つぎの当て方がしゃれている子はいましたが。

 出張に出かけていない普段の父は朝決まった時刻に家を出て、歩いて10分程度の会社に行き、夕方になると、これまた決まった時刻に帰ってくるという毎日でした。小学校に上がる以前の私は時々ですが、父を迎えに行ったことがあります。今思い返すと、正門を入って右手に木造の2階建ての事務所があり、玄関を開けるとカウンターの向こうで父が何やら執務をしている姿が見えました。父は私が声を掛ける前に気づいて自分の席に呼んでくれるのでした。そして、暫くすると周囲の人々に挨拶して一緒に帰るのですが、幼い私は、ひょっとして、待っている間に周りの人から構ってもらうのが嬉しくて父を迎えに行ったのかも知れません。時々残業する工員さんのおやつになるアンパンをもらったりもしました。

 父は平成元年に亡くなりました。もう、半世紀以上前の脈絡の無い思い出です。都合よく脳内で美化しているような箇所はあると思いますが、懐かしい父の思い出の切れ端です。機会があれば、又綴ろうと思います。