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談話室

進藤 宏 スーパーボウル(アメリカンフットボール)雑感 (1981年のSan Francisco 49ers)

16歳のとき、今年San Francisco 49ersの雄姿をスーパーボウルに見ることができた。嘗て5度にわたりスーパーボウルに優勝し、1980年代最強のチームと言われたが、その後低迷が続き、久方ぶりの登場である。
初の海外赴任地であったロスアンジェルスから、1980年にサンフランシスコに転勤した。両市は西海岸でのライヴァルとは言え、SFは歴史的にやや古く落着いた雰囲気で日本人にもなじみやすい街でしたが、LAには、熱気と勢いがあり、経済的にも圧倒的優位にありました。
スポーツでも、LAは、野球のドジャーズ、バスケットボールのレイカーズ、フットボールのラムズ、が常にリーグのトップを争い、カレッジはUCLA、USCが全米トップクラスと、週末は地元チームの応援のためテレビ中継に噛り付いたものでした。ひきかえてSFは、野球のジャイアンツ以外、当時バスケットボールのクリッパーズ、フットボールの49ers、は共にリーグの最下位に低迷する有様。対岸のオークランドがアスレティックス(野球)、レイダーズ(フットボール)の強豪チームを擁するだけに、スポーツ好きの身には、SFの冬 (せいぜい摂氏10度位ですが) が身に応えました。

転勤してその年、49ersのシーズンチケット(80~81年)を申込みました。LAでフットボール、バスケットボールのチケットと言えば、後楽園の巨人・阪神戦のチケットみたいなもので、極めて入手困難。それがSFでは簡単に、しかもシーズンチケット(8試合分)まで買えるのには正直驚きました。が、その年も大幅に負け越して終わりました。翌シーズン(81~82年)前、79年からヘッドコーチに就任していたビル・ウオルシュがチームの大幅な若返りとディフェンスの強化を実施、加えてあのジョー・モンタナをこの年から正QBに起用。すると、ウオルシュの作戦がことごとく的中(のちに彼の作戦はウエスト・コーストオフェンスと名付けられます)し、ライヴァルのLAを2勝0敗と葬り去り、これまでの不振が嘘のように、その年確か13勝3敗で地区優勝、SF市民全員を、熱狂と興奮の渦に巻き込みます。そのあとのNFCのチャンピオンシップでは、当時の常勝軍団ダラスカウボーイズを、残り時間1分、今も “THE CATCH”と語り継がれるパスタッチダウンで破り、スーパーボウルではAFCのシンシナチベンガルズを圧倒し初めての優勝を遂げました。その日、試合中には森閑としていたサンフランシスコの街には、優勝決定とともに狂喜の嵐が吹き荒れ、車のクラクションが響き渡りました。誰も彼もが車のクラクションを押し続けたのです。試合後、車でダウンタウンに行きましたが、人、人、人で溢れかえり、すれ違う車は優勝を喜び、お互いにクラクションを鳴らし、興奮は冷めることなく、祝宴は一晩中続きました。
この後、ビル・ウオルシュの80年代に2回、次のコーチの80年代、90年代に各1回の優勝を遂げました。
そのあと、今回のスーパーボウル出場まで20年近く不振が続いたのです。過去、スーパーボウルでは必ず勝っていたので、今回も、と期待したのですが、残念な結果に終わりました。

当時のSF49ersは今でも胸躍る想い出ですが、不振にあえいでいたチームが適切な指導者を得、それに応える人材が機能したとき、昨日までとは全く異なったチームに変身する、その事実をまざまざと見、反対に適切な指導者と人材を得なければ簡単に凋落の一途をたどるという怖さを知りました。

教訓。