LOUNGE
談話室

宮元 芳樹 「フィリッピンと合唱」

私はいま、日本のNPO/NGO法人に資金助成をして、協働で国際協力、支援活動を行っている財団に勤務していますが、ここ数年東南アジアが中心になってきており、特に私の場合フィリピンの山奥へ行くことが年に1~2回あります。
マニラから北に向かって、車で7~8時間かかる、基本的には米作地帯ですが、地域的には、昔から、大農家や商業従事者から農機や治水や借入等で搾取された零細な貧農が多く住むエリアです。
此処で、日本のNPOのたくましい女性が中心になり、農機レンタル事業及び有機野菜の栽培及び流通事業にチャレンジしており、わが財団から何がしかのファンドを助成しております。
この女性は、アメリカの大学院でMBAを取り、大、中規模の海外資源開発や農業開発プロジェクトのコンサルテイング業務を行う傍ら、NPO法人で、ボランテイアに近い形で、前述したようなエリアでの仕事もこなしてきたスーパーウーマンです。
驚いたのは、初めて訪問した時に、2~3歳の子どもが彼女のデスクの周りで、一人遊びをしているので、この子は誰の子と聞いたら、彼女は現在子ずれで当地に来ており、託児所や預ける場所もないため、職場に連れてきているとの事でした。この子はとても愛想がよく、タガログ語、日本語、英語を駆使しながら、皆から可愛がられており、職場の雰囲気づくりに大いに貢献しているように思われました。昼になれば、近くの食堂や、弁当など持ってくるという習慣もなく、いろいろ持ち寄って適当に作られたランチを、職場のテーブルでみんなでワイワイ言いながら食べるという、これで、仕事になっているのかなと、やや、心配になる職場環境であった訳です。
彼女にこの辺のところを聞いてみると、基本的には欧米式の合理主義(今や日本の企業文化もそうかと思われますが)は全く機能しないし、またむしろ機能させないほうがよい。むしろ、我が国の得意な「和をもって貴しとなす」の方が、全体としての能率がはるかにあがるとのことでした。
閑話休題 私は、この財団の仕事を週3日、あとは二つの合唱団の練習やお世話係の仕事で1週間が瞬く間に過ぎてしまいます。時々フィリピンの報告(割とうまく行っている)をみるたびに、米作で育った日本と同じような共同村社会でのビジネスと、合唱は似ているのかなと思うことがあります。一人才能のある優秀な人がぐいぐい引っ張るというよりは、周りに気を遣いながら、皆が歩調を合わせて、一歩、一歩前進していくのは、アマチュアの合唱団の最重要な要素の一つかもしれません。全員、高水準のメンバーが、目一杯頑張ってる合唱団の演奏と、色々なレベルの人が、一つの方向に向かって、一生懸命声を合わせている合唱団の演奏がありますが、私は後者の演奏の方がずっと好きです。

溝口 正平 「65の手習い・・・Jazzに悪戦苦闘」

 リタイアしたらもう一度習おうと決めていたのがピアノ。
3年前に自宅近くのY音楽教室に入学。ピアノを習うのは幼稚園以来、実に62年ぶり。
 レッスンが永続きするためには何よりも先生の魅力が第一、との自分勝手な思い込みで、不遜にも3人の講師の体験レッスンを経て先生を決めた横着な生徒。
 努力の甲斐あり?素敵な先生に恵まれたところまでは良かったが、無謀にも今まで全く無縁のジャズに挑戦。案の定レッスンは苦労の連続。
 そもそも渡された楽譜に書かれているのは、テーマとコード進行のみ、あとは真っ白。(Jazzでは当たり前の事と言うのが後で分かる。)
自由に好きなようにアドリブでと言われても、メロディは全く浮かばず。無理やりひねり出したところで、聞き覚えのあるクラシックの曲の一節に酷似。
そもそもコードの知識もなく、メロディをと言われてもしょせん無理な話。加えて元来創造性に欠けるタイプ故、Jazz本来の醍醐味、楽しみのアドリブ演奏に苦しみを覚える次第。
 さはさりながら、銀座Yホールで、1年目に”You be so nice to come home to”、2年目は”Someday my prince will come” をギター、ドラムスとセッション。すっかりライブの魅力にとりつかれ、素敵な先生との「亡き王女のためのパヴァーヌ」の連弾に心ときめかせる今日この頃。
   最近読んだ本の中で山下洋輔がピアノを弾き始めた頃の思いを書いている。
 「ピアノは好きだけど習うのは嫌。紙に書いてある妙な記号と、ここにある白黒の鍵盤の対応関係を覚えろというんでしょう。これは嫌な世界だなと、本能的に分かった(笑)。そんなことは覚えたくない。押せば音が出るのだから、それで楽しいというのが最初だった。」
 そうか、やはりJazzをやるのはこういう人なんだ、と妙に納得。
ライブハウスで興に任せて飛び入りで1,2曲サラッと演奏、なんて姿を夢見ているが、いつの事やら・・・。

進藤 宏 大学紛争の頃のグリークラブと1969年の「未婚」について

伊藤さんがグリーに入部された当時のことを竹本さんが書いておられましたので、懐かしく再度投稿いたします。大学紛争の頃の話です。

私たち19回生が教養から六甲台に上がった2年生の後期、期末試験が始まるその当日六甲台学舎が全共闘により封鎖されました。大学は就職を控えた4年生のため試験は全てレポートに切り変え、下級生もこれ幸いとレポートを書き、写し、出来る限り単位を稼ぎました。全共闘の諸君も同様に頑張ってレポートを作成、封鎖の恩恵を充分に堪能したと聞いています(大学とか、その他諸々の権威を否定するところから全共闘運動ははじまったはずですが、単位は矢張り切実な問題であったようです)。丁度、定期演奏会を終え、翌年3年生になる私たちがクラブの運営を引継いで少し経った頃でした。

1969年最初の演奏会である関西六大学合同演奏会(関学、同志社、立命館、関大、甲南の錚々たるメンバーです)に向け、竹本さん(現当団指揮者)の下、確か「シューマンの男声合唱曲集」に取組んでおりました。

学内の状況を反映し、部内には種々様々なメンバー、当時の仕分けでいえば、右翼・ノンポリ・民青・全共闘、あるいは一般学生・暴力学生と称される殆どすべてが揃っていました。
普段、練習場の外で顔を合わせば、議論・非難・実力行使(ゲバルトとも言いました)にと、すぐにいがみ合う連中が、部内では仲間として、かつ当然の事のように、同じ曲に取組んでいる。極めて不思議な空間が六甲台講堂に存在していました。
このような場を提供、維持出来る、そのことだけでもこのクラブが存在する意味があるのか、とも思っておりました(こんな甘いことを公表すれば、すぐに「自己批判しろ」とクラブ内のあらゆるセクトから糾弾されかねない雰囲気でしたが)。

いつも通り練習は続けていたものの、騒然とした環境の所為か熱が入らず、曲も遅々として進みません。この状態が続けば関西六大学への出演を辞退せざるを得ないことになりかねません。

部員総会を開き意見を聞いたところ
1. シューマンは、今の私たちが歌うのに相応しい曲なのか
2. ドイツ語で歌って分かってもらえるのか(これは永遠の課題です)
3. 私たちが共感をもって表現できる曲を歌いたい
4. 私たちが考えていることを、当日チラシにして配りたい
5. エール交換に「商神」はふさわしいのか
等々、特に「曲目の変更」はほぼ全員の要請でした。
つまり「私たちを取り巻く状況の中で、今の私たちが共感をもって歌える曲を歌いたい」が大勢を占めました。「いったん決めた曲を安易に変更するのはどうか」との意見もありましたが、いずれにせよ、シューマンでは進まず、曲目を変更しなければどうにもならないのは明白でした。

では「何を歌うのか」「チラシを配るとすれば内容は」「商神」の話。

曲目は以前4年生が歌ったことのある「未婚」に比較的すんなりと決まりました。「未婚」と言う曲が本当にベストであったのかどうかはわかりません。ただメンバーが知る限り、最も心情的に相応しい曲だったのでしょう(60年安保の頃に作られたと聞くこの曲が、70年安保を控えた当時の状況に合ったのでは)。決定したのが多分2月末頃、それからは通常の練習に、合宿にと「未婚」を歌いこみました。全員が納得し選んだ曲だけに、練習への集中力には素晴らしいものがありました。

一方、「チラシ」は案文を募ると、全共闘のアジテーションの類、いわゆる「我々はー、何々の闘争においてー」的なものも含め様々。最後は、確かシャンソンのジャック・プレヴェールの詩を引用した平易かつ格調の高いものに(建築科の部長が挿絵と文案を練りました、自画自賛ではありません、手元にあれば披露したいくらいです)。

六大学実行委員会の事前打合せでは、甲南大学が「演奏で表現すべき。チラシは邪道、絶対に認めない」と強硬に反対し了解が得られず、結局演奏会当日の委員会に持ち越すことに。否決されれば出演辞退も止むなしと緊張しつつ臨みましたが、幸いなことに、関西大学の「チラシの内容、表現に全く問題はない。配る、配らないは各大学が決定すればよいこと」で漸く決着が着きました。

「商神」に代わるべき歌は? メンバーは神戸大学のほぼすべての学部を網羅している。そのエール交換に相応しい歌は? 当時、学歌は制定されておらず、唯一全学的と言える学生歌「この丘に」を歌うこととしました。急遽中村先生に編曲をお願いし、軽快かつ歌いやすい曲にしていただきました。

演奏の結果は極めて好評を博し、合唱ジャーナルにて日下部 吉彦氏から「新曲にもかかわらずよく纏め上げた。」(確かそんな文章であったかと)と頓珍漢な絶賛を得たのも楽しい思い出です。
後日、出会った日下部氏に「みんなも喜んでおります。」と挨拶したところ、「新曲だなんて、知らないで書いて失礼しました。でも、とても良かった。」と改めて誉めていただきました。「想いというか、そういうものが伝わってきました。」とおっしゃったのを今でも覚えています。

前回の定期演奏会にて、久し振りに「未婚」を歌い、忘れていた「あの未婚」を思い出しました。当然ながら、当時感じた熱気、高揚感は無く、経った時間の長さのみが残りました。
1969年の「未婚」は多分、状況と、その中で息づいていた部員の思いが創り出した稀有な演奏だったのでしょう。その一員であったことに今改めて感謝をしています。

曲の選定にあたっては、少なくとも、状況に相応しい曲、共感を持てる曲、選定の意図が明確な曲、の何れかを満たすことが必要ではないでしょうか。そのような曲を歌えたらと思います。MGCさんが演奏された「枯木と太陽の歌」には感動しました。「年輪を重ねた人たちが年輪に相応しい重厚な表現をされていた」のに共感したからです。

その後大学紛争の激化に連れ、部内も紛糾の度を強め、5月の関西六大学合同演奏会を最後としてこの年のグリークラブは演奏活動を休止、クラブも一旦休部としました。秋頃ようやく大学紛争も収まり、クラブ再開へ動き始めました。その頃、私達3年生はクラブ運営に失敗した責任からほぼ全員が退部します。無責任にも1、2年生にクラブ再建の重荷を委ねたわけです。

古いことで、思い込み、間違い、不十分な表現等多々あるかと思います。忌憚なくご指摘いただきますようお願い申し上げます。

進藤 宏 スーパーボウル(アメリカンフットボール)雑感 (1981年のSan Francisco 49ers)

16歳のとき、今年San Francisco 49ersの雄姿をスーパーボウルに見ることができた。嘗て5度にわたりスーパーボウルに優勝し、1980年代最強のチームと言われたが、その後低迷が続き、久方ぶりの登場である。
初の海外赴任地であったロスアンジェルスから、1980年にサンフランシスコに転勤した。両市は西海岸でのライヴァルとは言え、SFは歴史的にやや古く落着いた雰囲気で日本人にもなじみやすい街でしたが、LAには、熱気と勢いがあり、経済的にも圧倒的優位にありました。
スポーツでも、LAは、野球のドジャーズ、バスケットボールのレイカーズ、フットボールのラムズ、が常にリーグのトップを争い、カレッジはUCLA、USCが全米トップクラスと、週末は地元チームの応援のためテレビ中継に噛り付いたものでした。ひきかえてSFは、野球のジャイアンツ以外、当時バスケットボールのクリッパーズ、フットボールの49ers、は共にリーグの最下位に低迷する有様。対岸のオークランドがアスレティックス(野球)、レイダーズ(フットボール)の強豪チームを擁するだけに、スポーツ好きの身には、SFの冬 (せいぜい摂氏10度位ですが) が身に応えました。

転勤してその年、49ersのシーズンチケット(80~81年)を申込みました。LAでフットボール、バスケットボールのチケットと言えば、後楽園の巨人・阪神戦のチケットみたいなもので、極めて入手困難。それがSFでは簡単に、しかもシーズンチケット(8試合分)まで買えるのには正直驚きました。が、その年も大幅に負け越して終わりました。翌シーズン(81~82年)前、79年からヘッドコーチに就任していたビル・ウオルシュがチームの大幅な若返りとディフェンスの強化を実施、加えてあのジョー・モンタナをこの年から正QBに起用。すると、ウオルシュの作戦がことごとく的中(のちに彼の作戦はウエスト・コーストオフェンスと名付けられます)し、ライヴァルのLAを2勝0敗と葬り去り、これまでの不振が嘘のように、その年確か13勝3敗で地区優勝、SF市民全員を、熱狂と興奮の渦に巻き込みます。そのあとのNFCのチャンピオンシップでは、当時の常勝軍団ダラスカウボーイズを、残り時間1分、今も “THE CATCH”と語り継がれるパスタッチダウンで破り、スーパーボウルではAFCのシンシナチベンガルズを圧倒し初めての優勝を遂げました。その日、試合中には森閑としていたサンフランシスコの街には、優勝決定とともに狂喜の嵐が吹き荒れ、車のクラクションが響き渡りました。誰も彼もが車のクラクションを押し続けたのです。試合後、車でダウンタウンに行きましたが、人、人、人で溢れかえり、すれ違う車は優勝を喜び、お互いにクラクションを鳴らし、興奮は冷めることなく、祝宴は一晩中続きました。
この後、ビル・ウオルシュの80年代に2回、次のコーチの80年代、90年代に各1回の優勝を遂げました。
そのあと、今回のスーパーボウル出場まで20年近く不振が続いたのです。過去、スーパーボウルでは必ず勝っていたので、今回も、と期待したのですが、残念な結果に終わりました。

当時のSF49ersは今でも胸躍る想い出ですが、不振にあえいでいたチームが適切な指導者を得、それに応える人材が機能したとき、昨日までとは全く異なったチームに変身する、その事実をまざまざと見、反対に適切な指導者と人材を得なければ簡単に凋落の一途をたどるという怖さを知りました。

教訓。

吉澤 聡一 カラオケから合唱へ

東京六甲に入団して、約2年半となった。これまで合唱の経験は小学校を除いてほとんどない私だが、毎週楽しく練習に参加させていただいている。
入団のきっかけは、会社の先輩である竹本さんに誘っていただいたのが直接の動機だが、入団しようと思ったのはやはり音楽が好きだったこと、また中でもカラオケが好きだったことがその理由かと思う。
自分の趣味というと、これまでとかく下手の横好きでいろいろなものに手を出してきている。これは性格だろう。遥か昔を顧みれば小学校の時は自転車が好きで、赤城山や榛名山、妙義山など郷里の山々にサイクリングに出かけた。登りはもちろん切ないほどに苦しいのだが、坂を下り降りるときほとんどブレーキを掛けずに時速40km以上のスピードで走り降りる爽快感は何とも言えぬ気持ち良さで、このために続けていたように記憶している。
そのほかスキーや軟式テニス、硬式テニスなどを経験しそれぞれに楽しい思い出があるのだが、テニスにしろスキーにしろここ数年以上まったく遠ざかっている。
しかし、振り返れば、音楽だけは続いている。小学生の頃、熱心な音楽の先生に勧められ、そう言えば低学年から入っていた合唱クラブ。高校時代のブラスバンド。それ以降は音楽も聞くのが専門になってしまったが、社会人になってから30年以上カラオケは続いている。これは趣味というとあまりにおこがましく、単なる楽しみであるが。
なぜカラオケが楽しいのか。単にお酒が好きだから、女性が好きだから、というわけではない。もちろん嫌いではないが。そうではなく友人や会社の同僚・先輩、時には家族と通例は酒席の2次会で行くカラオケで、その場の雰囲気に乗りながらタガを外して歌うことが、ほとんど自己満足とも言えるが、限りなくストレス発散となっているのだ。これが楽しさの理由なのだろう。
いずれにしてもカラオケだけは続いている。音楽だけは続いているのである。これが東京六甲に入団して合唱をやってみようと思った心の下敷きにあったに違いない。そうだ。きっとそうに違いない! と、何やらひとりで納得。
合唱を始めて、これから何をしたいのかと言えば、歌うことの楽しさをさらに深めることと歌の技術の向上だろうか。カラオケは自己流で地声の発声だが、合唱の場合はそうはいかない。合唱の発声をしなければいけない。なかなかうまくいかないが。それと名曲にチャレンジすることで、過去又は現代の音楽の達人、巨匠に触れることができる。これも大きな刺戟であり、喜びだ。また、先輩団員の皆様との交流は音楽以外の話も含めとても刺激になり、大変貴重と感じている。
これからは、合唱を単なる興味から趣味に変えていきたいものだ、と思いながら、今日も練習後中華「万里」にて紹興酒の乾杯をしている。

原田 修一 合唱未経験者の東京六甲入団のひとり言

―入団まで―
2009年6月23日(火)大変お世話になっている滝沢さんが、「東京六甲の練習を見においで」と誘われ練習後に一杯飲み会もあるからとの事で酒飲みの私は練習を見に行く事にした。(酒飲みの「さが」である)
練習に参加の際、音域を尋ねられ、バリトンであると答えたところ、團野さんの横に座らされ、楽譜を戴いた。曲はプーランクである。
音譜は多少読めるが、それはクラリネットの楽器を吹いていた頃で、ト音記号であったので、ヘ音記号の音が取れない。
團野さんが横で先に音を出して戴き、それに合わせる型で、歌って見た。(少し音がとれた)
―入団表明―
次回の練習日は6/30(火)である。一杯飲み会の会場、中華料理店「万里」で、なんとなく入団を表明してしまった。滝沢さんの戦略に見事、はまりました。
7月1日、正式入団とあいなった時に、東京都の合唱祭に是非参加しなさいと言われたが、自信もなくお断りをし、会場に聞きに行く事とした。
妻を連れ出し、感想も聞きたいので会場に行くと、皆さんのリハーサルの時間であり、團野さんが、リハーサル室に来ればと誘われ、妻と二人で皆さんの後から聞かせて戴いた。妻は、「なんと素敵なハーモニー。是非若い貴方も歌ったら」と、感激しながら妻の了承を得た。(皆さんもお若いですが)

―想い出―
自己紹介の時には、音楽経験年数が上手く伝わらなかった様である。
自分の音楽経験はクラリネット・アルトサックス等を吹奏楽団(ブラスバンド)で演奏していた。(6歳~24歳まで)
そして、私は12歳の時に父と一緒にアマチュアの吹奏楽団(八王子)に入団した。父は37歳であった。(今もこの吹奏楽団は存在し、50年以上の歴史を誇っている)
来週の練習曲は東京都の合唱祭で歌う「浜辺の歌」と「中国地方の子守唄」を練習するとの事を聞いた。
大変なつかしく、クラリネットからアルトサックスに持ち替え、「浜辺の歌」をソロで演奏した事が想い出され、来週も参加する事を決めた。

―練習方法―
「よし、やって見よう」と思い、本格的に参加する決断をした。
しかし仕事の悩みがあり、かなりしんどい時であった。(今もそうですが)滝沢さんに誘われ、幸運にも歌がこの状況を払拭してくれた。(精神的に)
定期演奏会が4月に行う予定で、本格的に定演の曲の練習に入った。
参加できるか不安で、練習方法を考え、ipodを通してMIDIを電車の中で聞こうと思い、ヨドバシカメラに行き購入をしようとした所、iphoneで大丈夫ですよと勧められ、オッチョコチョイの私は携帯で録音も出来るしipodもあると聞き、早速機種変更をし、購入した。
これは後になって幸いした。
外国語の苦手な私は、練習を録音し通勤電車の中で聞く事が出来た。(ドイツ語が分からず辞書を購入。言葉の意味を理解しようとした)

―第3回定演―
「まさか、合宿までやるのか」と、皆さんの熱心さに驚きを覚えた。
プログラム作りや、歌詞集作り担当の滝沢さん、岸本さん、青山さんも一生懸命だったので多少、お手伝いをした。(女子社員も動員された)
あっという間に4月の本番当日。
朝から雪まじりの雨、大変である。客は入るのか、心配であったが、満席の来場者であった。ステージに立つと、昔からステージが好きだったのかなと思うほど、客席も良く見えた。妻の顔も見えた。手を振っている。(恥ずかしくないのか?)
「浜辺の歌」の時である、昔のステージを想い出し、背筋がゾクゾクした。涙が溢れてきた。あー、合唱団に入って良かった。久し振りの感激・感動・感謝である。

―現在―
こうして、合唱未経験者がもう4年目に入った。
今では、練習後の飲み会の会計役になってしまった。滝沢さんの後継ぎである。ひょっとして、二次会用の幹事として入団させられたのかな?(笑)
B1の高倉さんからはコンマス(コンパマスター)と呼ばれ、今週も「万里」で楽しんでいる。
お誘い戴いた滝沢さん、音をくれる團野さん、それと合唱団の皆様に未経験者をやさしくしていただいている心に感謝、感謝。

以上 B1コンマス
原田 修一

橋田 晋治 LONDON 2012の夏-タイ家族旅行話

ロンドン五輪が始まる7月下旬から2週間、30歳代の銀行時代に最初の海外勤務地として家族同伴で6年間滞在したタイへ家族旅行した。最初の1週間は家内と二人、バンコック一泊目の朝は”LONDON 2012″なでしこJAPANの対カナダ戦快勝のテレビニュースから始まり、朝からいきなり気合いが入り気分がググッと高揚した。
早速街歩きを始めたが交通手段は専らホテルから直結しているスカイトレイン(BTS)を利用し交通渋滞から解放されて、すこぶるラクチンであった。こちらに来てまず感じた事は東京との温度差。夜間から朝方にかけてはエアコンをOFF にし、長袖シャツを着用していても十分涼しく感じられたが、何故か当地ではホテル、ショップ、レストラン、電車やタクシー内をフルパワーのエアコンでガンガン冷却するので、半袖シャツでは鳥肌が立ち思わずサマーセーターを羽織ることも多かった。またスカイトレインから降車したとたん眼鏡が真っ白に曇り何も見えないこともあった。連日の猛暑・熱中症の東京を逃れて南国タイに避暑に来た様な気分であった。街角で見掛ける若者達は以前より体格が良くなり活力がある、また女性達は色白でスマートな人が多くなったのではないか(勿論そうでもない人もいるが)。所得・生活水準の向上に伴う中間層の台頭がその一因だろう。消費ブームが肌で感じられ、日本食レストランの多いのにも驚いたが、どこもタイの若い人達で繁盛している。街の人々は皆さん一見の旅行者の私達にもにっこりとほほ笑み優しく接してくれ、家内はBTSの車内で何度も座席を譲ってもらって恐縮していた。

滞在二日目に予めメール連絡していた友人に再会した。彼は私が当地に滞在した70年代には日系自動車会社に勤務されていたが、今や在タイ47年にも及び外資系会計・法律事務所の要職に加えタイ国日本人会会長も務められている。翌日が私の76歳誕生日だったのでそのお祝いをも兼ねて中国レストランで会食を開いてくれた。お互いの健康を祝福して乾杯し、彼が厳選してくれた北京ダック、シーフード他のメニューを贅沢に味わい、異国での忘れられないバースデイ・イヴの会食となった。

76歳の誕生日の朝の目覚めも”LONDON 2012″男子サッカーで日本が優勝候補スペインを破ったニュースで始まった。どう云う訳か人は皆国外にいると愛国心が強くなる傾向があるらしいが、日本の若い男女達のオリンピックでの活躍で気分は愈々盛り上がり、爽快な朝が続く。この様にして”LONDON 2012″と当方の訪タイ日程はパラレルに進行していった。

在タイ一週間目、女子柔道で松本薫の金メダル第1号獲得をTVニュースで知った日の午後、次女と孫娘二人が元気で空港に到着し私達にジョインした。さあ明日からは皆でロイヤル・リゾート地のホアヒンで楽しく過ごそう。

ホアヒンはタイ国王室の保養地として古くから発展した。ゆったりとして優雅な雰囲気が漂い、美しい白浜と波の静かな遠浅の海が南北に細長く延々と続く、快適なリゾート地である。バンコックの南西230キロ、タイ湾に面し海の対岸はパタヤになるが勿論ここからは水平線以外何も見えない。ここを訪れる日本人観光客はまだそんなに多くない。私達は市街地から少し離れた、ビーチに面した広大な敷地の中に閑静でトロピカルな、この世の楽園をイメージして作られたと思われる様な手入れの行き届いた緑豊かな庭園の美しいホテルに滞在し、4泊5日の殆どの時間をそのホテルの中で過ごした。 孫娘達は連日プールで泳いだりウオータースライドを滑ったり、また海辺に出て乗馬を楽しんだり海上を猛スピードで駆け回るバンパーチューブ(別名ドーナッツボート)に乗って絶叫したりして夏休みを満喫している。私は波の音を聞きながらビーチサイドのデッキチェアーで読書をしたり、ホテル内の美しい庭園を散策したり、時には孫達と一緒に泳いだりしてゆったりとした時を過ごす。オリンピック情報は英字新聞や海外テレビ局のスポーツ放送に限られ、日本の選手達の活躍振りがよくわからないので、滞在3日目にホテルのビジネスセンターにお願いしてYAHOO! JAPANからの最新情報を日本語で確認した。

楽しい時間の過ぎるのは早い。ホアヒンでたおやかな時を過ごした5日目の朝再び猛スピードのシャトルバスでバンコックに戻り市内のホテルにチェックイン、明日は娘達3人が一足早く帰国する。
実はバンコックでもう一人タイ人の旧友に是非会いたいと思っていいた、70年代彼とは地場中小繊維関係企業経営者と邦銀支店の企業担当者としてお互いに切磋琢磨して信頼関係を深めていったが、同年生まれで何か心の通い合うものがあって、私の銀行退職後も永らく家族ぐるみの親密関係を続けてきたもののここ数年間連絡が疎遠になっていた。フランス・ベトナム・ラオス系の奥方が住宅街に経営されていた高級ベトナムレストランを連絡の足掛かりにしようと思い、訪タイ3日目には家内と二人で記憶を辿りつつ探し求めたが、それらしき店は見当たらず、やっとのことで探し出した場所は日本料理店の看板が掛かっていた。同日ホテルに帰り持参の古い住所帳を再チェックしたところ彼の携帯電話番号を発見し神に祈る気持ちでダイヤルを回すと幸いにも通じた。”I’m in London.”と聞き驚いたが彼は私達家族での訪タイを喜んでくれロンドンでの予定を切り上げて帰国しバンコックで再会することを約束してくれた。
ホアヒンからバンコックに戻った日の午後早速彼に電話すると、彼は既に自宅に戻っており、娘達の帰国前のその夜急遽皆で会おうということになった。夜迎えの車が来て降ろされたのは何と彼の旧邸宅の跡地に奥方がベトナムの伝統的木造家屋として新築された、先日探しあぐねたレストランの移転先であった。
家内と娘にとっては16年振りの夫妻との再会となったが、最初の一秒で以前の親密関係に戻ることができた。その夜はハーブで包んで食べる本場のベトナム料理に感動しながら時を忘れて遅くまで旧交を温め合ったが、彼はその後事業を拡大された上、今やタイ国通商会議所会頭として多忙な日々を送られていることを知り、その後の彼の精進・活躍振りを心からうれしく思った。彼が英国留学中に学費を賄うためにアルバイトでバーテンダーをしていたと云って私達にお代わりをしたくなる程美味しいマルガリータのカクテルを作ってくれたり、刈谷市の豊田自動織機での研修時代に宿舎の五右衛門風呂に入って足を火傷しそうになった若い頃の思い出等を楽しそうに娘や孫達に話す彼の様子を側で聞いていてそのフランクな人柄は昔のままだと嬉しく思った。奥方は娘の幼女時代をよく覚えていてくれて昔皆でパタヤビーチの沖の島で遊んだこと等を語り合ったりしてその夜を楽しく過ごし、次回東京での早期再会を約して別れたがご夫妻との再会は今回旅行のハイライトであった。

娘達3人が帰国して年寄二人が残り二日間をバンコックで過ごすことになったが、マンダリン・オリエンタルホテルの川辺のテラスにある船着場までチャオプラヤ川をボートで渡りホテルでゆったりと落着いた日を過ごした他は特に名所旧跡の訪問もしなかった。

LONDON 2012日本人選手情報は相変わらず入手困難な状況が続いたがどうやら”なでしこJAPAN”はアメリカと決勝戦へ、男子サッカーと女子バレーボールは韓国と3位決定戦となった様子だ。日本の金メダルは松本、内村の2個のまま伸び悩んでおり、あとは終盤のレスリングとボクシングの格闘技を帰国後我が家で応援する他はなさそうだ。頑張れ日本!愛国心は益々高まる。旅の満足感と五輪への期待・不安感との入り混じった複雑な思いを抱えながら猛暑・熱帯夜の東京に向かって帰国の途についたのであった。

今回のタイ旅行は、LONDON 2012の開会式が私の76歳誕生日に当たったこと、リゾート地で親子3代で楽しい時間を過ごせたこと、70年代からの旧友二人に巡り合いお互いの健康を喜び旧交を温め合って異国に友を持つ喜びを実感したこと等忘れ難いものとなった。

余談: 旅行中私のいびきの轟音が夜通しうるさくて全く眠れないと同行家族全員から総攻撃を受け、ホテルの部屋をグレード・アップした上、私はリビングのエクストラ・ベッドで寝かされたりしてその場の応急対策を計ったが、帰国2日後病院を訪ね専門医による検査の結果重症の無呼吸症候群と診断され、その日以後CPAP鼻マスクを装着して睡眠している。違和感もあり慣れるまでにはまだ相当時間が掛かりそうだが、病気発見のきっかけとなったのも今回家族旅行であり家族の愛情を率直に喜んでいる。

高倉 勇  ガン よもやま話

ちょうど3年前恒例のドックで、ガンが見つかった。

1、告知
癌の告知ってもっと重みのあるものと思っていた。 エコーで腹部にリンパ腫が見つかり精密検査を受け、結果は
“ああこれは悪性リンパ腫だよ”
‘先生、それって癌でしょう’
“そうだよ”
とでかい声でやり取りし、終わった。
リンパ腫という名前が悪かった。10歳下の末弟が大腸がんの手遅れから、最後はリンパに転移して、54歳で10年前に亡くなった。この場合のリンパと悪性リンパ腫のリンパとは関係ないものだが、当時は私は知らなかった。リンパ癌と聞いただけで=死であった。そう死の宣告だと思った。正直ガーんと頭を殴られた感じであった。医者は他人事だと思って、あっけらかんと悪性リンパ腫だと言いやがったと。

おれはやることはやってきたし、いつ死んでもいいよとほざいてきた俺が、瞬間死んでたまるかと思った。いや生きたいと思った。人間っていい加減なものでした。いや私っていい加減でした。

2、一応闘病
2種類の抗がん剤治療を受けたが、治らず(リンパ腫は普通これで80%は治ると言われているが、アンラッキー! またこの薬での平均余命は3年とネットに出ていた。ということは今年死ぬということか)。
次いで、放射線で叩くと言われたが、これはセカンドオピニオンを活用して、逃れた。(癌経験者の忠告(まずは自分なりに本を読み勉強しろ)から、10数冊読んだが、私なりの結論は癌はまだまだ正解のない病気で(医者によっていうことが全く異なる)、抗がん剤・放射線(従来型の)は間違いなく副作用はあるが治る確率は低い=できるだけ避けるべし、と私は結論付けているから。
但し血液のがん(白血病・悪性リンパ腫等)には抗がん剤治療しかなく、また結構有効だということも理解した。それで医者の言うことを丸のみせず、かなり自分の意思(間違っているかもしれぬが、自分の命)に沿った治療を受けてきた。基本はもう73歳にもなり、ベッドに縛られて、生き延びるより、今の生活の質QOLを大事にしようというものです。
ガンとは仲良くしようと。カッコつければ共生しようと。お蔭で今ではだれも俺が病人だとは認めてくれないが。

3、お次は胃がん
6月末に恒例のドックに入り、胃カメラをやった結果、胃がんが発見された。早期発見だから、内視鏡摘出手術でOKだろうとのこと。
慣れたのかガンだと言われても全く驚かない自分が居りました。アー之は簡単だよと。

4、ガンの恐怖
今は日本人の二人に一人はガンに罹るということです。従いガンに罹ったと言っても驚くに値しませんが、ガンはやはりガンです。まだ正解の治療法も確立していないし、完治率は低いし、死に至るケースが大部分です。
共生などと笑いながらもガンでいずれは死ぬのだなあとは思っている。この影は陰に陽に意識の中に常にある。うっとうしいものです。

でも罹ってしまったものは仕方がない。ゴルフも男声合唱もしっかり楽しんでやろうじゃないか。とこう思って、人生悪くないなと思っている。(空威張りかな?)

佐藤 良子 ミュンヘン・歴史トリビア

ミュンヘン、と聞くと、皆様がまず思い浮かべられるのは「ビール!」・・・でしょうか? ドイツの町で日本人が咄嗟に思いつくのは、東西に分断されていた「首都ベルリン」か、ビジネスマンの方だと「日本人村」デュッセルドルフ、或いは金融の中心フランクフルトあたり・・・?

私は「フランス語よりドイツ語の方が簡単そうだ」という、かなり安易な理由から(英語すらダメなので)留学先をドイツ語圏に絞って学校・先生探しを始めたのですが、幸い御縁があってミュンヘンのオピッツ先生に「拾って」頂くことになりました。それまで彼の地の歴史とか殆ど興味も無かったのですが、大学の校舎が立派ではあるものの音大にしてはちょっと風変わりだったこともあり、少々興味を抱くようになりました。その中から、ちょっとした「エピソード」をご紹介します。

① 第2次大戦開戦前年、1938年9月に 英・チェンバレン、仏・ダラディエ、伊・ムッソリーニ&独・ヒットラーがドイツ・ミュンヘンに集まり「ミュンヘン会談」が開かれたことはご存知の方も多いと思います。
この会議の会場は現在、ミュンヘン音楽大学の校舎として使われています。
もともと戦前はナチ党の本部の一角で(総統館)、ミュンヘンの街は戦時の空襲で中心部が殆ど壊滅状態になったのですが、なんとこの本部建物はどんな爆弾にもビクともしなかった(ホントか~!?)とか。
いまだに(外見はくすんで汚いのですが)現役で活躍し続けてます。
いわく付きの建築だし(1934年築)、戦後なぜ解体しなかったのだろう?とも思いますが、すべてが壊れてしまった中で、残ったものはなんでも有効活用しよう・・ということだったのでしょう。(それに空襲でも生き残ったぐらいだから、壊すのも大変?)
それにしても・・・優雅に?音楽を奏でる術を学ぶ音大とは、かけ離れたイメージ。

② 私がレッスンを受けていた1階の部屋には「開かずの扉」があり、それは地下への階段、更に街の中心部へ通ずる地下通路へと繋がっていて、もしも襲撃を受けた際に逃亡するためにヒットラーが掘らせた「秘密の地下通路」になっているそうです。(街の中心から音大までは1キロ弱の距離)
学生の中には運良く?階段までは見ることが出来た人も。音大は、ちょっとした「肝試し」に使えそうな場所でした。
なおヒットラーの執務室は学長室となっていました。必要以上に広く長~い、まるで宮殿のような大理石の正面大階段は ヒットラーが軍靴でコツコツ音を立てて歩くのが好きだったから・・・なのだとか。

③ 音大の住所はミュンヘンの「Arcisstrasse 12」。ここには20世紀初頭・ナチに没収されるまで、ミュンヘン有数の名士「プリングスハイム家」の豪邸がありました。当時、芸術文化の一大サロンとして大変有名な屋敷だったそうです。
「プリングスハイム」という名前、ある年齢以上の方は直ぐ気付かれると思いますが、日本でのクラシック音楽の普及に多大な貢献をされた「クラウス・プリングスハイム」という方が、まさにこの名家の出身です。
(指揮・作曲・教育の両面で活躍)
※かの柴田南雄さんも旧制高校時代に日比谷公会堂でプリングスハイム指揮の東京音楽学校オケの「マーラー6番」を聴き「魂を揺さぶられた」と記されています。

またこの音楽家プリングスハイム氏の双子の妹が「カーティア・プリングスハイム」、あの作家・トーマス・マンの奥さんです。
二人はこの「Arcisstrasse 12」のプリングスハイム邸のサロンで知り合ったとか。

プリングスハイム家はユダヤ系だった為、ナチスの台頭と共にミュンヘンを去りますが、その住まいの跡地にナチ党中枢の建物が建てられた、というのはなんとも皮肉。

④ 時代は前後しますが、19世紀後半に音大が「再建」された時の初代校長は「ハンス・フォン・ビュロー」。
ワーグナーが提唱し、時の王・ルートヴィッヒ2世が私財を寄付し再建が実現したそうですが、この頃には既にビュローさん、奥さん(コジマ)をワーグナーに取られていました。当時、指揮者・ピアニストとして既に名を馳せていたビュロー、よく引き受けたものだ、とも思います。(2年で退任)・・いわゆる割り切り型?
ビュローの名誉の為に申し添えますと、彼はその後ベルリンフィルの初代常任指揮者になり、またリストの難曲ピアノ・ソナタも初演しています。
(ついでながら、あのラインベルガーも同時期、本校のオルガン科教授でした。錚々たるメンバー!)

⑤ ナチ党の地盤というイメージが強いミュンヘンですが、反対にドイツ人自身による「抵抗運動」も起き、「白バラ」と呼ばれたグループのショル兄妹はじめ、若者達が命懸けで抵抗していました。ただその運動が戦争終結へは直接結び付かなかった感じで、多くの善意の人々が次々処刑されました。
戦時にギロチン処刑の行われた場所は現在、刑務所になっています(市の東部)。

以上、ミュンヘン・歴史トリビア?でした。

滝沢 章三 オートバイを手放すの記

16歳のとき、学校をサボって明石の大蔵谷にある運転試験所に行って軽免許を取ってきた。試験車はボロボロのラビットスクーター。これが私のオートバイとの付き合いの始まりである。

大学2年、姫路の教養を終えて六甲台に来た頃、須磨寺商店街の豆腐屋の息子が「廃品業者のところに電報配達のオートバイが放出された。まだ十分に乗れる。5千円だ」と教えてくれた。アルバイトで家庭教師をやっていたので買える値段である。すぐに兵庫駅近くの廃品倉庫に行き、街でよく見かける空色のトーハツ125ccを手に入れた。

それから2年、くだんの廃品倉庫に淡路島で使っていた白バイが入った。メグロ(現、カワサキ)の単気筒500cc。当時としてはまだ少数派の大型オートバイライダーになった。28歳のとき、二人で乗れるようにとテントウムシのスバル360に乗り換えた。そして時が流れた。

還暦を前にしてオートバイの夢を見るようになった。「オートバイ」などと寝言をいたりしてみた。カミさんが諦めたので、ホンダのナナハンを求めた。当初は房総半島を中心に走ったのでボウソウ族となった。もう少しデカイものに乗りたくなったので、ヤマハの1300ccに乗り換えた。こいつは雪の降る夜中に盗難にあってしまった。落ち込んでいたらカミさんに慰められたので、BMW1100cc水平2気筒を求めた。BMWはよく走り、160㎞/h位は楽に出た。ETCと無線機を取り付け、仲間と一緒に西は神戸、北は青森まで走りまくった。73歳の時引越すことになり、オートバイを置く場所が無くなった。これを機に未練の一つを切り捨てた。切り捨てたつもりだが、未練が尾を引くのも人情。合唱仲間の長野さんと(彼もBMWに乗っていたが手術を機にバイクを手放した)レンタルバイクでどこか行くか、とこそこそと相談している。